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○  平和な沖縄を不屈にたたかった瀬長亀次郎

島ぐるみの運動で勝利
米軍支配に抵抗し本土復帰

 不屈─「どんな困難にぶつかっても意思を貫くこと」。沖縄県民から「カメさん」と親しまれ、戦後の沖縄を語ることはカメさんを語ることといわれ、この言葉を信念にアメリカ軍に屈せず、沖縄の民主主義の回復と基地撤去、本土復帰へとたたかい続けた瀬長亀次郎の生涯を娘さんである内村千尋さんの語る素顔とともに紹介します。

 1945年8月、瀬長亀次郎は沖縄県北部で敗戦を迎えます。敗戦後も直接統治を続けるアメリカ軍に田井等市の助役として、収用所で飢えに苦しむ人の待遇改善など救援にあたった瀬長は「戦争は終ったが、地獄は続いていた」という言葉を残しています。
 1946年、アメリカ軍は沖縄民政府を発足させますが、行政の責任者はアメリカ軍の任命制でした。このため、1947年に瀬長らは沖縄の人民自治の確立や直接選挙の実施などを求めて人民党を結成します。1950年6月朝鮮戦争に突入、この時すでにアメリカは沖縄の長期保有を決定し、1951年サンフランシスコ講和会議で、日本は沖縄をアメリカの施政権下に置くこと受け入れ独立、沖縄は取り残されました。

住民から土地を銃剣で強奪

 1953年4月冷戦の激化にともない、アメリカ軍はあらたな基地建設用地確保のため「地主が拒否をしても強制的に収用できる」土地収用令を公布、銃剣とブルドーザーで土地を強奪し始め、翌年3月に1坪年間コーラ1本にもならぬといわれた借地代の一括払いを打ち出します。各地で強制収用反対を訴える住民の支援に力をつくしていた瀬長らはこれを許せば無期限に土地を確保されてしまうと、(1)借地代の一括払い反対、(2)適正補償、(3)アメリカ軍の加えた損害賠償、(4)新土地接収禁止の「土地を守る4原則」をかかげたたかいます。すると土地接収を続けたいアメリカ軍は、1954年10月に瀬長はじめ人民党員40数人を軍が手配した人物をかくまうことにかかわったと突然逮捕、「人民党事件」です。残された仲間は支援を続けますが、宜野湾村伊佐浜などが強制収用され、獄中の瀬長は日記にこの時の無念さを書き残しています。翌年の経済白書で「もはや戦後ではない」と発表され、日本人の多くが戦後のつらさをぬけだした時期でした。
 1956年4月に瀬長は出獄します。その2カ月後、「借地代の一括払いは適切」という報告(プライス勧告)がアメリカ議会に提出されます。この勧告に瀬長らだけでなく立法院議員、市町村議員も立ち上がります。各地で「土地4原則の貫徹を守る」集会が開かれ、当時の県民の4分1の15万人が参加した7月の那覇での大会で瀬長は檀上からこう訴えました。「一リットルの水も、一握りの砂も、一坪の土地もアメリカのものではない。空気はわれわれがただですわせている。その上今回の新たな土地強奪である。われわれは対米非服従運動をおこさなければならない」。そして、沖縄は多くの人びと、あらゆる組織、階層の人が手をとり、「島ぐるみ闘争」とよばれる大きな闘争をおこし、アメリカ軍の圧制に立ち向かっていったのです。


市民が納税に行列
瀬長の窮地救おうと

 そして12月の那覇市長選挙で住民は瀬長を選びます。しかし直後、アメリカ軍は那覇市の銀行預金を凍結、土地計画事業への融資も突然中止されます。この瀬長の窮地に多くの那覇市民は行動を起こします。「銀行がお金をとめるのなら私たちが動かす、税金を納めて瀬長市長を助けよう」と市民の行列ができたのです。前年度77%だった納付率が那覇市政最高の96%に達し、これにより那覇市は独自予算で公共事業を再開、市政は軌道に乗り始めます。
 動揺したアメリカ軍は1957年11月に2つの布令を発します。市町村自治法を市長の不信任案が可決しやすいよう、これまでの全議員数を3分2以上から過半数にし、逮捕・投獄の経歴を理由に被選挙権をはく奪、2度と立候補できないようにした上で、不信任案を可決させ、10カ月で市長の座から引きずりおろしたのです。しかし、翌年1月の次の那覇市長選挙で住民が選んだのは、瀬長同様に日本復帰を訴える候補でした。
 その後ついに、アメリカ政府は地代の値上げと一括払いの中止を決定。瀬長追放に象徴される不当な弾圧に県民による島ぐるみの不屈のたたかいが勝利をおさめたのです。


 沖縄と本土の声をひとつにして阻止
新基地は作らせない
オール沖縄が歴史受けつぐ

 そして、1960年4月に市町村会など530団体でつくる沖縄県祖国復帰協議会が発足し本土復帰の動きに拍車がかかると、本土でも同じ年に本格化したベトナム戦争をきっかけに、アメリカ軍が出撃する沖縄基地への反対と沖縄の返還も求められたのです。当時のライシャワー駐日大使は「沖縄問題の日米の対立は予想をこえ、すべての日米関係を悪化させる」と見直しを本国に訴えています。
 1966年11月に日米両国は1972年に沖縄の施政権返還を合意。しかし、瀬長ら復帰協議会の人びとは猛反発します。基地の存続や自由使用が予想されたからです。
 1970年、沖縄の戦後初の国会議員となった瀬長は翌年国会で訴えます。「県民は基地も核もない平和な島として祖国に帰ることを願っている。あの紺碧の空、美しい海、とられた土地、この全部が沖縄県民に返り初めて平和な島の回復ができる。これが26年叫び続けた沖縄の心である」。
 1972年5月15日沖縄の施政権が日本に返還。基地は残ったままでしたが、沖縄の人びとは運動の力で悲願の祖国復帰をはたしたのです。
 その後も瀬長は議員として20年、基地撤去など求め2001年10月5日94歳で亡くなります。翌日地元紙は1面トップで報道、告別式は多くの市民が参加、「沖縄のためにがんばってくれた」といった手紙に「みんなの心に亀次郎のたたかいがあると感じた」と千尋さんはいいます。
 今、辺野古の基地阻止へ座り込みが続く団結小屋に高く掲げられる「不屈」の文字。「ここで耐用年数200年の新基地を許したら、ずっと基地の島になってしまう」と千尋さん。「沖縄は『島ぐるみ闘争』や『本土復帰』のように統一組織を作り要求をかちとってきました。この歴史があるから『新基地は作らせない』という一点でオール沖縄でたたかっているのです。しかし、基地問題は沖縄だけで解決できません。本土復帰のように沖縄と本土の声をひとつに、基地建設を推し進める安倍政権はダメだと、ともにたたかっていきましょう」。


家族には「ふつうのお父さん」
県民の闘い伝える資料館開く

 「全然怖くありませんでしたよ」。約1年半の刑務所生活の中、当時小学校4年生だった千尋さんは、一緒に逮捕された人の支援などで忙しかった母のフミさんにかわり一人で差し入れに通います。瀬長の日記には千尋さんを「チビ公」とよび、訪れるようすが愛情深く記されています。
 千尋さんは1987年に病にたおれた瀬長を14年間介護します。「沖縄県民みんなが介護すべき人を、あんたが代表してるんだからがんばりなさい」と励ましてくれる人などをつうじて、「子どものころは怖い存在で、孫をとってもかわいがる私には『ふつうのお父さん』が、どれだけ沖縄の人びとに影響を与えているかわかりました」。この経験から、日記をはじめ膨大な沖縄の歴史に残る資料を残したいという思いが不屈館(那覇市若狭にある瀬長亀次郎と県民のたたかいを伝える資料館)開設につながりましたと話します。

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