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○ あの日多摩が燃えた 八王子・立川の空襲

語りつぐ山中坂の悲劇
壕に身を寄せた42人が犠牲

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山中坂の祠で犠牲者の冥福を祈る永元さん

 「4月4日水曜日午前1時敵機来襲防空壕でぶるぶる寮の窓ガラスは割れる。すごい響き壕から出てみれば工廠のほうは火の海そして四方八方火の海。住宅はめちゃくちゃ。恐ろしくなった」この日記をつけた女性は陸軍航空工廠会計課で働いていました。(1945年、当時17歳)
 米軍機からの空襲は当時昼間に高いところから爆弾を落とすということが行なわれていましたが、夜間に低空爆撃を試みたのが立川空襲の特徴です。理由は高いところからの爆弾投下は風にあおられ目標に着弾させることが難しかったとその後のアメリカ軍の資料からわかりました。爆撃対象は立川陸軍航空工廠と立川飛行機砂川工場でした。
 アメリカ軍の爆撃目標を照らす照明弾のフラッシュが強すぎて逆に目標が見えなくなることが起き、そのため爆弾は住宅などに落ちたのです。
 「立川空襲を語り歌いつぐ集い」に携わっている永元実さんの案内で山中坂に行きました。ここには当時防空壕ではなく、坂の斜面を利用した旧立川町が管理していた大きな横穴式の所蔵庫(後に防空壕と呼ばれている)(以下「壕」)がありました。目標からそれた250キロ爆弾が壕の正面に落ちました。この壕に身を寄せていた42人全員が犠牲になりました。現在はほこらと中に地蔵が置かれています。犠牲者の氏名の入った石碑が置かれています。すぐ横に「山中坂悲歌」(やまなかざかエレジー)の歌碑が建てられ、いまでも歌いつがれています。

焦げた玄米を食べ
焼け出された加藤さん

 山中坂のそばにある加藤籠店の女店主、加藤モトさんにお話を伺いました。モトさんは加藤家に嫁ぐまえから近所に住んでいました。
 【加藤モトさん談】私が小学6年生の12歳のときです。3月9日にB29が編隊を組んでたくさん上空を飛んで行ったあと東京の空が真っ赤になっていたことを覚えています。ここらではそのほか、静岡方面からよく偵察機がきていました。都心に向かって飛んでいてこの辺りは通りすぎることばかりでした。偵察機は行ってまた帰ってくるので空襲警報がよく鳴りました。警報が鳴ると、学校にいれば、防空頭巾をかぶり重たい勉強道具をもって、走って家に帰ります。警報が収まるとまた学校へ走って行く。そんな毎日でした。実家は畑があったので芋などを食べました。
 将来はお嫁さんに行きたいとか、看護婦さんになりたいとか全く考えたことはなかったです。一日一日生きるのが精一杯でした。
 実家は火が回ってきて焼けました。米俵も焼けました。焼けたコメはとても臭くなりましたが、食べるものがなく、焦げた玄米をついて炊いて食べました。戦争が終わったと聞いて、勝ったとか負けたとかでなくもう走らなくていいとほっとしました。

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