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○ 東京土建 の結成 を振り返 る/荒井 春男 元書記長 に聞く(1)

 東京土建は来年、組合結成70周年を迎えます。戦後の歴史の中で、諸先輩方はどのような思いで活動してきたのでしょうか。荒井春男元書記長に組合結成当時のようすなどを語っていただきました。(取材は2月29日、小金井国分寺支部で行ない、聞き手は大江拓実元書記長、白滝誠書記長、三木勉けんせつ編集長、伊藤暁書記です)

「長男坊に裏切られた」
教宣部長から書記の道歩む

白滝 1945年の終戦のころは、荒井さんは18歳ぐらいですか。
荒井 いや、終戦のときにちょうど20歳でした。正規でいくと兵隊検査がありました。だから、同級生などは大変な検査をやりました。私は予科練に志願してしまいました。部隊が静岡へ来て、それで終戦です。三保の松原のところです。でも飛行機はもうないのです。だって、練習機が特攻隊にみんな持って行かれてしまっているのですから。
白滝 大工さんになられたのは、終戦後ですか。
荒井 そう。親父が国分寺で名のあった大工なものですから。それで長男なので、親父は跡を継ぐものだと決めているのです。本当は継ぎたくなかったのです。だから、すぐに2年ぐらいで道を外れました。「うちの長男坊に裏切られた」と言ってさんざん愚痴をこぼされました。組合のほうにかかわってしまったものですから。
白滝 東京土建で書記になったのはいつですか。
荒井 常駐になったのは60年安保闘争が始まったときです。
白滝 では、その前までは役員として活動されていたわけですね。
荒井 はい。非専従で教宣部長です。
白滝 組合に加入したのはいつですか。
荒井 組合に入ったのは昭和27年(1952年)です。
白滝 組合ができて4~5年目ぐらいですね。

健康保険期成同盟で組合加入

荒井 では、私が入った動機なども話をしましょうか。うちの長男坊が生後8カ月で大病を患ってしまったのです。立川病院へ駆け込みましたが、「うちでは手に負えない、港区青山の日赤にいい先生がいるからそこへ行ったほうがいい」と言われました。生まれたばかりの病人の子を連れて毎日通うなんてできません。だから思い切って青山の高樹町に引っ越しました。
 当時は職人には健保がないから、医療費を段取りするのが一苦労でした。そんなときに、同じ病院に入院していた全駐労(米軍基地内で働く日本人の労組)の労働者がいて「私たちは健康保険があり、本人は10割給付だ」「職人さんは大変だね」と言うのです。それで、私たちは健康保険が大切だと話をしました。
 引っ越した所が東京土建の港支部、当時の中央支部で支部長をやっていた寺田さんの家作でした。それで寺田さんからすぐに組合に入れと言われて組合に入ったのです。加入したと同時に、健康保険獲得の期成同盟の発会式が渋谷の公会堂でありました。全国から集まって、保険を持っていない労働組合が共同で健保獲得の運動をやろうと呼びかけられました。その集会に案内され、その帰りに組合加入の手続きをやりました。
白滝 集会へ行ったのが先ですか。
荒井 そうです。24歳ぐらいです。
白滝 当時、組合員というのはどれぐらいいたのですか。
荒井 その当時は3500~3600人いました。労災保険の取り扱いなどをこつこつやりながら組合員を増やしました。昭和27年には健康保険獲得の闘争が始まります。その直後に血のメーデー事件があった。土建も引っ掛かりました。当時、委員長をやっていた千葉常和さんが逃げてしまい、書記長の唐沢さんも逃げてしまいました。
 唐沢さんが「逃げなさい」と、われわれを追い出し、地方を回って組織しなさいと言いました。それが土建総連をつくるきっかけでした。

機関紙を発行しろと
担当書記がいないなか

白滝 メーデー事件のころから役員を始めたのですか。
荒井 組合に入って半年目ぐらいに、大会前でしたが中央執行委員会で教宣部長にさせられました。昔はそういうことをやったのです。教宣部の担当書記なんていないのです。それでも機関紙を出せと言うのです。
白滝 そのころは『地下タビ』ですか。
荒井 『地下タビ』は三枝さんという方、彼が私たちの前にやっていたのです。私のころには『けんせつ』です。仕事の帰りに組合事務所に寄っては記事を書きました。部会をやって、みんなが記事を出し合って、原稿書きをやったのです。しばらくは教宣部長をやりました。つたない文章で一生懸命書きました。
白滝 もう活字になり始めましたか。
荒井 はい。もう私たちのときには印刷です。三枝さんの当時はガリ版でした。
大江 活字になるのが早かったですね。
荒井 はい。そういう意味では、先見的だったのですね。

復学して大工職人へ
戦後復興で増えた新築仕事

白滝 終戦当時の建設職人が非常に困難な時期に、よく組合をつくってきたなと思うのですが。
荒井 困難があった。だから組合活動ができたのです。当時の私は職人になって、親父のあとを附いて歩いている程度の、職人らしからぬ職人でしたが、うちの親父などに言わせると、希望に燃えていました。もうやる気満満でした。戦前から戦中は、国分寺駅前の有名な棟梁で、立派な店を持っていました。
 それが、戦争が始まり、進行するにしたがって、もう新しく家を建てようなんていう人はいなくなってしまいました。家屋疎開の仕事など、家を建てる仕事ではなくて家を壊す仕事を随分としたわけです。親父は「こんなはずじゃない」なんてこぼしていました。愚痴を言っていました。
大江 大工さんにとっては苦しいことですよね。
荒井 戦争が終わり、戦後の復興が始まりました。戦争で相当焼け、駅前なども混雑して良い商店街だったけど、疎開で壊してきたので、新しく建てなくてはいけないのです。それで新築仕事が増えたのです。そのかわり、良い仕事ではありません。当面、雨をしのげる程度のバラックに毛が生えた復興住宅です。それでも忙しかったです。そこへ私なども復員して帰ってきて、「お前は必要なんだから」、と引きずり回されました。
白滝 そのときから大工の修行が始まったのですか。
荒井 そうです。戦争に行く前に、日大工業で建築科の勉強をやっていたのです。そこへ予科練の募集が入りだまされて志願してしまったのです。そういう経験があるものは勉強に復学したのです。夜間部に復学しました。昼間は仕事を3時半までやって、お茶の水の日大工業まで通いました。仕事は大工職人の見習いみたいなことをやっていたのですが、やはり身に染みないわけです。
白滝 当時、健康保険の獲得は、相当大きな要求の柱だったわけですか。結成大会でも最初の行動綱領に健康保健獲得が入っていますね。

健康保険がなくツケに追われる

荒井 そうですね。健康保険がなくてうちの長男坊が入院しましたが、10日目ごとに医療費のツケがきて、職人がいくら働いても払いきれないのです。私たちは親父が助けてくれたから借金はしないですみましたが、一般にはもう医療費に追われました。
 だから、職人は健康保険に対する要求は切実でした。それが10割給付の大切さです。
 それで組合ができて、10項目の要求の中に健康保険を位置付けた。それで健康保険の運動の最初は署名をやりました。「職人さんは健康保険も何もなかったの」といって勤め人の人がよく協力してくれて、またそのことがうれしくてやりがいになって、それで一生懸命に署名運動をやりました。健康保険をつくる運動をみんなやったのです。私は子どもがそういう病気だった体験を持っているから、健康保険はとても大事だと思いました。

多かった老闘士
「このあほんされ」と一喝

白滝 当時の組合の活動家というか、仲間はみんな若いですね。
荒井 若い人は少なかったです。結構年寄りが、戦前の労働運動の経験を持っている筋金入りが中心でした。
白滝 全協(日本労働組合全国協議会=非合法)からですか。
荒井 知り合い仲間を組合に引っ張り出して、結構組合運動にもそういう人たちが中心になって参加をして、理論的にも筋金です。私は機関紙を作っているものですから中執にも顔を出させてもらえました。当時の中執は8人しかいないのですが、そうそうたる連中です。足立の新田忠太郎さんとか、久保田保太郎さんとか。ただ、怖い中執でした。猛者ばかりでした。
 私は機関紙の関係があるから、口を出さなくてはいけないのです。それでつまらない発言をしようものなら「黙っていろ、このあほんされ」「お前らが発言するのは10年早い」とやられたものです。そうすると伊藤さんが帰りがけに、「荒井くん、一緒に帰ろう」、それで「頑張れよ」なんて言って、一杯飲ませてくれたのです。「悪気で言っているんじゃないから、気を落とすんじゃないよ」と。伊藤さんには当時からよく面倒を見てもらいました。

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