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○ 思い出の一曲

 忘れられない思い出とともに、つい口ずさんでしまうような1曲が誰にもあるのでは。通信員の皆さんに思い出の曲を紹介してもらいました。

近く流れる「神田川」
2人で過ごした安アパート

 【台東・看板・今井彰通信員】私の思い出の1曲は「神田川」です。家内と付合い始めた頃、新宿区内のアパートに住んでいました。早稲田行き都電の石切橋駅付近だったので神田川も近くに流れていました。家内は母親と兄との3人暮らしだったので、自然と私のアパートに来ることが多くなりました。
 給料も安くアパート代を払うと生活費として使える額も少ないものでした。自炊をしていたので、当時は家内よりも料理のレパートリーも多くアパートに来た時はすべて自分で調理していましたが、外食の方が多かったように思います。床屋代がもったいなく思い、家内に髪を切ってもらったら頭の型が角ばっているので目立たなくしようと角ばったところだけやけに短くされてしまい、1カ月間恥ずかしい思いをしました。
 歌の中に出てくるように一緒に風呂屋に行ったことも何度かありましたが、待たせて寒がらせたことはなかったと思います。あの曲を耳にする度にあの頃を懐かしく思い出します。

メロディーが第一
橋幸夫の「雨の中の二人」

 【杉並・電工・佐藤雅一通信員】心に残る曲は、私にとってはメロディーが良いことに尽きる。聴いていると詩が心にしみて良いと思うこともあるが、良い曲とはメロディーだと私は思う。
 「雨の中の二人」がズバリその曲だ。前奏からして名曲である。雨音を模したといわれているあの前奏だけでも良いものだが、曲もさることながら随所にあるアレンジもすばらしい。それと何といっても歌い手の橋幸夫の声のうまさ。これは彼でなければ、はたしてこれだけの名曲になったのかはなはだ疑問である。この曲の詩、雨の情景とメロディーが見事に一体となっている。
 この曲の作者は、利根一郎である。彼の住まいが私と同じ堀ノ内(杉並区)であったことも何かの因縁を感じる。近ごろの記憶に残らない曲に比べて、この「雨の中の二人」を含めた昭和40年代の歌謡曲黄金時代がたまらなく懐かしい。昭和は遠くになりにけりということか。

スケート辞めようか
父への反抗「思いのままに」

 【江戸川・配管・齋藤政晴通信員】私の思い出の1曲はオフコースの「思いのままに」です。小学4年の時、父親に連れて行かれたアイススケート場で、居合わせたクラブチームの方の勧めで、本格的にスピードスケートを始めました。
 体の成長とともにタイムも上がり、中学3年では全日本の大会で決勝に進出するまでになり、父親の期待がますます膨らみました。それまで「金は出すが口は出さない」主義だったのが「金は出すが口も出す」とコーチに対し、練習方法に異議を唱え始め、私は父とコーチの板挟みになり、もう辞めようと思いました。
 そんな折、聴いていたFMから「誰にも僕の行く道を止められないそうだろう行かせてほしい」というフレーズに衝撃を受け、その曲がオフコースの「思いのままに」でした。
 初めて、父親に意見をしました。人はそれを反抗と呼ぶかもしれませが、自我の確立のきっかけになった曲です。

「雪山讃歌」を合唱
中学で20㎞遠足の道中

 【小平東村山・塗装・安立孝章通信員】私の思い出の1曲は「雪山讃歌」。南極観測が始まった頃の隊長の西堀栄三郎さん作詞の曲です。
 まだこの曲ができて数年ぐらいの頃、中学校の遠足で学校から20㎞先にある三瓶山(1126m、島根県)に歩いて行きました。その当時はバスとオートバイぐらいで道路もデコボコ、交通量も少なく田園風景を眺めながら雑談したり、時どきみんなで雪山讃歌を合唱しながら楽しんで行きました。半世紀以上たってしまった今でもいい時代だったなあと思い出されます。
 今は遠足で20㎞歩くことなどとんでもない時代になってしまいましたが、昭和30年代半ばは遠くまで歩いて行くことが遠足でした。バスなどは眼中にない時代で、みんなその日を楽しみしていたものです。
 今の東京では田園風景の中で、子どもたちが合唱する姿は想像できません。

放送禁止「イムジン河」
著作権問題知りショック

 【葛飾・主婦・大山艶子通信員】「え~、そうだったの…」。思い出の1曲と言えば、当時短期間だけ活動し解散してしまったザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」。放送禁止になったというので余計に注目が集まりました。
 朝鮮戦争で祖国を2分されたという和訳された反戦歌で哀愁を帯びたメロディーとともに強く共感を覚えました。思春期の多感な時期、何を見ても腹立たしく、家族ともほとんど会話もせず殻に閉じこもっていた頃のことでした。
 それがつい最近、放映された番組の中で、当時の関係者が「あれは単純な著作権問題だった」と知り、ショック。あの時の思いはどうしてくれるの?とテレビを観ていて苦笑いです。熱い思いで聴いていた若い時の純粋さに水をさされた気持ちでしたが、日常に追われ感動したり、怒りの気持ちを持つことが少なくなった歳になり、懐かしい思いでした。

ピアノ調べでジ~ン
「冬のソナタ」を韓国語で

 【中野・主婦・浜崎時子通信員】「好きこそものの上手なれ」とはよく言ったものです。上手かどうかはさて置き、私は歌うことが好きで、合唱団に入っています。
 もう10年くらい前に、韓国ドラマの「冬のソナタ」が大ブームで、私も話にひき込まれ、感動の涙を流しました。きれいなピアノ曲が流れてくるだけで、胸がジーンとしてくるのです。
 その主題歌を覚えたくて、本を買ってきて、ビデオの曲を流し、韓国語の歌詞にカタカナをふり覚えました。韓国語らしくはなったけれど意味が全然わからないと一人で苦笑しています。
 息子の嫁が韓国の方で、嫁の両親と会った時、歌って聞かせたら「よく解かるよ」と言ってもらえて、ちょっと自信がつきました。
 そして今でも韓国ドラマファンです。

「五番街のマリー」は私
20代以来の再会で聞かされ

 【渋谷・内装・田中まさ子通信員】20代のOL時代、会社の仲間たちと2台の車でドライブに。帰りに私の乗った車が事故を起こし、ケガをしてしまいました。運転者の男性が責任を感じ、一生面倒をみるようなことを言ってくれました。軽いケガなので心配なくとお話ししました。
 その後、私は退職。連絡することもなく何十年後の飲み会で再会した時、「元気そうで良かった」と声をかけてくれました。気にかけてくれたことを実感しました。その後カラオケでその男性が「五番街のマリー」を歌いました。歌詞を聞いた時、自惚れですが、自分のことだと思いました。
 それ以来、カラオケに行く機会があれば歌っています。20代を思い出させてくれる青春の1曲です。

「寒い朝」こそ青春
部活に受験勉強に励んで

 【八王子・事務・小林八洲美通信員】吉永小百合の「寒い朝」が思い出の1曲です。「北風吹きぬく寒い朝も心ひとつで暖かくなる♪」。まさしく青春です。
 冬の寒い日に町を歩きながら、また受験勉強に励みながら、口ずさんで何となく頬っぺたを赤くしました。街角で出逢いたいなあと歩を緩くして、後ろに気配を感じながらの高校までの道を思い出します。運動部での帰り道に自転車の後ろに乗せてもらったり。50数年ぶりに同窓会で出逢ったら、お互いさま歳を重ねていました。一言、あら「変わってないね」。これは嘘っぱち。私は見事に受験に失敗して、帰り道に本当に「寒い朝」を経験しました。
 デュエット曲には誰もが甘く切ない想い出があるのではと思うのですが、最近、深夜ラジオから流れてきた「いじけてないで手に手をとって♪」が心に響き、口ずさんでいました。

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