建設業ではたらく仲間をサポート

FAX:03-5332-3972 〒169-0074 新宿区北新宿1-8-16【地図
メニュー

[連載] 忘れえぬこと


突然倒れ込み入院 NEW!

ベッドでは幻覚が現れ
大工 野口裕徳
 3月27日、その日は結婚記念日でした。夕方、会社の事務所に向かって歩いている時に激しい頭痛を感じ、その場に倒れ込んでしまったのです。近くにいた社長である兄に、救急車を呼ぶよう頼んだところで記憶を失いました。
 その後で覚えているのは、3日ほど経った頃からです。薄暗い部屋でベッドに寝そべり、腕には点滴が刺さり、起き上がろうとしても体は動かず、自分が何処にいるのかも分からず、起きたり寝たりを繰り返していました。
 入院中一番ショックを受けたのは、4月1日に予定していた友人の結婚式に出席できなくなったこと。自分で連絡することさえできませんでした。さらに病室では、幻覚にも悩まされました。部屋中に見たこともない動物がいたり、壁が見るたびに色を変えたりしていて、妻に「この辺にいるのは何?その壁何色?」と聞くと、「何もいないし、壁は白色だよ」と冷静に言われました。確かに数日たつと、動物を見ることも無くなり、壁も白色に戻りました。日が経つにつれ、少しずつ頭の痛みも無くなり、歩けるようになっていきました。
 入院生活は3週間ほどで終わりました。病名はクモ膜下出血で、重症の場合は即死や半身まひなどがあるそうですが、後遺症はなく無事に退院できたので本当に良かったです。無理はできませんが、少しずつ現場復帰もしています。
 今年の春は入院の為、神田川の桜が見られませんでした。「来年はみんなで見ようね」と、保育園に通う3人の子どもと約束しました。(新宿)

▲ページの先頭へ


絵画展で初の受賞

亡き父母の夢かなえる
塗装 伊東秀幸
 自分の人生で一番印象に残っていることは、4年前に「日本の自然を描く展」でJR東日本賞が取れた事です。
 大学時代に絵をよく描いて、卒業後は母と2人で家業の塗装の仕事をしてきました。よくケンカもしましたが、2012年10月頃に母にガンが見つかり、手術や抗がん剤治療など手を尽くしましたが2013年5月に亡くなってしまいました。
 母が亡くなって3週間後に上野の森美術館からJR東日本賞の通知が届きました。日本で3位の賞です。この公募展に出すきっかけをつくってくれたのも母です。
 母が亡くなってから遺品や手続きで忙しい中、棚の上に10枚ほどの封筒を見つけました。中を見ると母が書いた願書が入っていました。読んでみると、まず家内安全、商売繁盛、そして必ず最後に秀幸の絵が世に認められますように、と書いてありました。
 父は僕が21歳の時に亡くなっていますが、その年に立川で初個展を開いて絵が良く売れました。母が個展会場で泣いていたのをよく覚えています。
 僕は5月で35歳になり、今分会長をしていますが、祖父の誠三郎も組合の役員をしていました。祖父には僕が生まれてすぐから7歳の時に亡くなるまで、絵のことなど沢山の事を教えてもらいました。油絵を始めたのは16歳の時からで、JR東日本賞は両親の夢がかなった賞でした。これがきっかけになって、昨年は最優秀賞に当たる「上野の森美術館賞」を受賞することができました。(西多摩)

▲ページの先頭へ


眠気に負け命拾い

釣りの同行者は遭難
大工 松坂敏夫
 45年前の9月、当時仕事でつきあいのあった材木屋の番頭(以下、彼)から、以前より鮎が良く釣れると聞かされていた岐阜の川に、誘われて前夜車で出かけました。
 夜が明けるころ製材所に着き、車を乗り換えて揖斐(いび)川へ向かいました。しかし、たいした釣果もなかったので、昼近くに以前良く釣れた木曽川へ場所を変えることにしました。そこは名鉄の鉄橋の下で、近くに笠松競馬場もあります。私は河原に着くと、前夜から寝ていないせいで猛烈な眠気が襲ってきたため車に残り、彼だけが川に入りました。
 何時間かして目が覚めると、隣にパトカーが来ていました。そして私の所へ麦わら帽子を持って来て、「これを被っていた人が深みに落ちた」と聞かされました。「その人は自分と一緒に来た人だ」と、私は一瞬パニックになりましたが、まず連絡しなければと思い、製材所・材木屋へ電話をしました。
 その夜、現地に社長もみえ、捜索の方法等を打ち合わせ、潜水夫を入れたが見つからず、翌日潜水夫を増員しても手がかりもなく、その夜上流で大雨が降り、川は増水。3日目の捜索は中止になり、私は一時自宅に帰ってきました。
 1週間後に海に近い愛知県側の川岸で見つかり、事故の調書を作るので、愛知県津島警察署にも出向きました。彼の田舎(会津磐梯山の麓・河東)で行なわれた葬儀にも参列し、突然の出来事に土地勘のない私に、多方面手配をしていただいた人たちに感謝しています。(狛江)

▲ページの先頭へ


大道具一筋の人生

傘寿祝いに感極まれり
建築大工 吉田晴美
 私が建設業に入ったのは16歳、父親の大工仕事の手伝いからでした。その後、従兄の口利きで東宝撮影所の大道具係に入りました。「宮本武蔵」でかやぶき屋根のお寺を作ったのが初めての仕事でした。それから47年在籍した東宝を退職し、東宝の請負として大道具会社「吉田美術」を起業し、黒澤明監督の遺作「まあだだよ」から新たなスタート。
「影武者」「乱」などの黒澤作品をはじめ、数多くの映画作品に出会い、起業後は「踊る大捜査線」「海猿」「三丁目の夕日」など、数えきれないほどの映画に携わりました。
 仕事を続ける中で「忘れえぬこと」が3度ありました。 1つは平成26年、日本アカデミー賞協会から「協会特別賞」を受賞したことです。長年にわたり映画大道具一筋に尽力・貢献したとしての受賞でした。受賞パーティーでは華やかな登壇での祝辞や沢山の花束などを関係者からいただき、従業員と共に夢のようなひと時を過ごし、生涯忘れられない思い出となりました。
 2つめは翌年の平成27年に文化庁「映画功労賞」を受賞したこと。六本木ヒルズにて当時の文化庁久保田長官より授与されました。役所らしく粛々としており重責を感じました。
 3つめは、昨年3月10日、いつもどおり朝礼後のラジオ体操が終わると、突然従業員達から「ハッピーバースデー」の大合唱。私の80歳の誕生日、傘寿のお祝いでした。たくさんの祝辞が込められた色紙や花束などのサプライズプレゼントに、胸が熱くなり涙がこみ上げました。(世田谷)

▲ページの先頭へ


願いは基地のない国

故郷・佐世保で見た弾薬庫
設備 寺井京子
 ふるさと佐世保を離れて、半世紀が経とうとしています。東京よりも韓国に近く、ちゃんぽん、皿うどん、カステラ、ハンバーガー、海の幸も豊富で魚や牡蠣も新鮮で美味しく、思い出すだけでも生唾が出てきます。遠足で行った弓張岳から見る夕日は、九十九島の島影や海の水面が、オレンジ色から紫色へ。日没までの風景は、世界一だと思っています。
 私は練馬・区労協の10人ほどの人たちと、2010年12月、日本平和大会イン佐世保に参加しました。分科会で、佐世保湾内をチャーター船にて生まれて初めて見学。湾の中には、五島列島や宇久島などへの定期船数隻が接岸されているほかは、米軍・自衛隊の軍艦ばかりで漁船など一艘もありません。しばらくすると、岸に黄色のマークが付いた倉庫が5棟ほど点在するのが目に入り、ガイドさんより4トンほどの弾薬が貯蔵されている弾薬庫だとの説明がありました。この光景は、本当のことだろうか。佐世保市民は知っているのだろうか。定期船発着の港の傍らに、長崎・福岡・東京へ向かう人々が乗車する駅があり、一番賑やかな繁華街もあります。湾の周りにも、多くの人々が居住しています。また、弾薬を運ぶ方法はどうしているのか、危険ではないのか、不安が募ります。
 日本の基地の町が抱える問題は、山ほどあります。北朝鮮のミサイル攻撃に、日本の基地が狙われる報道が、いく度もされています。
 私は「取り戻したい」、基地のない国を。(練馬)

▲ページの先頭へ


おバカな想い出満載

波乗りにハマッてた20代
ハウスクリーニング 油屋正孝
 波乗りに没頭していた10~20代にかけての10年間は、とてもおバカな想い出でいっぱいです。高校に入ると先輩に連れられ波乗りに行くようになり、週末は毎週海へ行っていました。北は仙台、南は九州種子島へと飛び回っておりました。
 中でも種子島での1週間は、とてもおバカな1週間でした。沖合に良いポイントがあるとの情報を入手し、漁船に頼み連れて行ってもらいました。ポイントブレーク地点にはヘッドオーバーの波がセットで入ってきていました。周りには誰もいない、4人だけのポイント。夏の日差しはとても暑く、1人がウエットを脱ぐ時、下にはいていたブーメラン(競泳用パンツ)まで一緒に脱げ、スッポンポンで波に乗り始めたのを見て、4人のバカどもはスッポンポンで波乗りを楽しみました。6本くらい乗った時に下腹部に異変が。ヒリヒリ、痛いのです。ワックスでこすれて、赤くただれている始末。布一枚の力強さを実感しました。
 もうすぐお迎えの船の時刻も迫ってきた時、最大のうねりが入ってきました。僕は必死にパドルし、テイクオフ。波は風とあいまってチューブを形作っている。あれよという間にチューブの中に入っている。初めてのチューブライディングです。異次元の空間、波の壁の中にいる、そんな気分でした。無事ドロップアウトすると、仲間が迎えてくれ、「やっちまったな、アブ」と声をかけてくれました。それ以後チューブには3回くらいしか入れていません。(江東)

▲ページの先頭へ


思い立ち一人京都へ

道案内は「左右」か「東西」か
塗装 杉本良信
 40年以上も前の事です。1人旅がしたくなりどこに行こうか考えた末「そうだ京都に行こう」まるで宣伝文句のように思いついた。その1年程前に大阪万博があり、友人と2人で行ったついでに京都に寄ったことが脳裏にあったのかもしれない。
 私は大工をしていた関係で神社、お寺、庭園に興味をもつようになった。何の計画の立てず往復の足だけ決めて、とりあえず宿だけ予約した。
 行きは深夜バスに乗車し、うれしくて寝る事も出来ず朝6時に京都に到着。しかたなく駅の周辺を歩き、当時流行っていたボウリング場に行った。終夜営業で喫茶店の様な所でコーヒーとトーストを注文。何の計画もたてず地図も無くその後どうしたものか。
 お寺は早く行っても開いてないので10時頃までどこで何をしたのか覚えていない。それでも夕方迄ブラブラと歩いて宿を目指した。宿は四条通り付近。その周辺を歩いたことは今でも覚えている。
 中年の女性に声をかけ道を聞いた。宿のパンフレットの住所を見せると、やれ北だ南だ。そして東、西と言ってくる。右か左かと聞くと「北へお上がりやして」と返答。相手に訳のわからぬまま礼を言い別れた。どうにか宿に着きほっとする。仲居さんには不思議そうに見られたが、歩き疲れたのかその夜はグッスリと寝ることが出来た。翌日は朝から夕方迄ブラブラと歩き帰路に着いた。その後10回程1人で行ったが段々と様代わりしてしまった。今度はカミさんと2人で行って見ようかなと思っている。(台東)

▲ページの先頭へ


淫読を心がけて

先輩方の教え忘れず
鉄骨 似内正人
 人生80年の時代をまだ半分程しか生きていない若造が思い巡らしてみると「組合に関わっていくための背景とは」に辿り着いた。組合の中でちっぽけな石っころを見つけ出したのは、昨年亡くなられた元常任の鈴木政夫さんだった。当時同じ群に所属し、群長であった伯父がその後釜を押しつけるかのように引き合わせたのが始まりだった。
 生来、物事に首をつっこむ質だったことも手伝い、群長をしながら葛飾支部青年部の再建に部長として抜擢され、支部執行部の末席にまで取り立てられた。その道程の全てにおいて長年の支部の慣例を壊し、今は当たり前になった前例を作って来られたのは、鈴木政夫さんを始めとする先輩諸兄のおかげである。初めての専門部は社保対であった。浦川さんという経験豊富な書記と組ませていただいたが、右も左も分からず状況に流されているだけのお飾りでしかなかった。
 これではいけないと思い、支部から提供された議案・資料をはじめネットに散見する社会保障に関する記事や文献なども読み漁った。その源になったのは航空高専在籍中に「もの書きの師」と言っても差し支えない程に心酔していた国語教諭から離任の際にいただいた言葉である。「もの書きをするのであれば一つの事柄だけを突き詰めてはダメ。貪欲に何でも読む淫読(いんどく)を心がけなさい」。もの書きと伝える立場は相通じるものがある。今後どのような立場で組合に関わるにしても、先輩方の恩と師の言葉は忘れずにいたい。(葛飾)

▲ページの先頭へ


仕事は見て覚えろ

酒好きだったオヤジ
大工 川口直明
 今年で大工になって20年。その間オヤジと一緒に仕事をした時期は8~9年ぐらいだろうか。昨年7回忌を終えたオヤジと共に過ごした仕事の時間が忘れられない。高校卒業後、両親の勧めで設計の専門学校に進学したが、興味も持てずに1年もたたないうちに退学してしまった。その後フリーターを1年以上する生活が続いたが、21歳になった時「大工の学校に行きながら一緒に仕事をやらないか」と両親に勧められ、東京建築カレッジに入学し、オヤジと仕事をするようになった。
 しかし、学校の座学では学生気分が抜けきらず勉強しなかったが、実技では早く覚えたい一心で集中して取り組んだ。オヤジは町場の工務店をしていたが、仕事は大工仕事以外の工事が多く、「大工工事がしたい」と不満を言った時もあった。それに対してオヤジは頷くだけだったが、今ではどんな仕事でもとってくる大変さを実感している。
 年に1回ほどあった新築工事では、階段や和室工事はやらせてもらえなかった。昔ながらの職人で見て仕事を覚えろというオヤジだった。それでも数をこなし徐々に出来ることも多くなった。結婚してからはオヤジの元を離れ外でする仕事が多くなったが、一緒に仕事をするときは工事の進め方や納め方で意見を言い合い喧嘩になる事もあった。
 酒とタバコが大好きだったオヤジは飲みすぎで身体を壊し60歳で亡くなってしまった。2人で飲むことがあまり無かったが飲みながら仕事の話や相談にのってもらいたかった。(小平東村山)

▲ページの先頭へ


40代で目まいが

還暦過ぎ今は元気に
主婦 渡辺ルイ子
 皆さんの中にも似たような体験をされた方もいるかと思います。
 私が40代後半の頃でした。家族が仕事に出かけた後、洗濯をしようと洗濯機に手をかけた時、急に目の前が真っ暗になり、サーと血の気が引き意識が遠のくような感じになりました。
 このまま倒れてはいけないと必死で洗濯機につかまり、落ち着くまでそのままの状態でいました。横になった方がいいと思い、部屋で休もうと体を動かしたら天井がぐるぐると回り、枕に頭をのせようとした時には全身が宙に浮く感じがして、すごく不安になりました。今までで初めての体験でした。
 このような酷い目まいはこのあと5、6回ほど続きました。どの目まいも夕方の買い物などで出かけた時に何となく「今日も酷い目まいになりそうだな」と感じることがあり、買い物もそこそこで済ませて早足で帰ってきた記憶があります。
 お医者さんからもらう飲み薬などが効き、徐々に安定してきたので本当によかったです。原因はストレスや不眠・疲れ・ホルモンバランスによるものとのことでした。自分ではあまりストレスなどないと思っていたので意外でした。
 辛かった時には家族や友達が支えてくれました。今では還暦を過ぎて数年経ち、あの頃が嘘のように動き回れるのがうれしいです。これからも体調管理に気をつけながら、楽しいことや面白いものを見つけていきたいです。本当に健康って有難いとつくづく感じる今日この頃です。(中野)

▲ページの先頭へ


小用にも一苦労

前立腺がんとのたたかい
内装 富彌良則
 2年前の9月11日に前立腺がんの摘出手術をした。腹腔鏡手術で入院期間は1週間の予定だったが、1週間経ち排液量も殆どなくなり19日に腹腔内の排液チューブを抜いたが、排液がなかなか止まらない。自分でも焦ってきてガーゼ交換なら自分でもできるからと24日にガーゼを付けたまま退院し、排液は3日で止まったが、傷口がなかなか治らない。場所が盲腸の辺りのためズボンのベルトが締められない。サスペンダーを使用するが前立腺を取ったため尿漏れが頻繁でパットをしており、トイレで小便器が使えない。個室で用を足すしかない。いろいろ不便なことが多く自分の体を恨めしく思った。
 1カ月ぐらいすると時どきチクリとした痛みがでるようになりシャワーを浴びた時、何か白いものがあるがよく判らない。12月4日に写真を撮ってみると傷口に5ミリぐらいの輪に結んだ糸が貼り付いている。そのうち取れると思いガーゼをあてた。8日にガーゼに糸が付いており、かさぶたも取れて直ぐに傷口が治っていった。何の糸か病院で聞いてみたら45日位で溶けるとのこと。
 思い当たるのは50年前の盲腸の手術しかない。排液チューブを挿していた場所が盲腸の手術痕のわずか下であり1カ月半かけて体の細胞が勝手に異物と判断し押し出した物であると確信している。今更ながらに自分の身体の不思議さに驚いている。残念ながら強力ながん細胞はまだ残っていて、今年放射線治療もやってみたが、たたかいは当分続きそうである。(品川)

▲ページの先頭へ


労働学校で開眼

交流楽しく妻と出会う
畳工 阿部史夫
 今年で60歳。組合には25歳の時に加入しました。今は清瀬久留米支部だが、田無保谷支部に加入しました。組合のことなんか、何もわからなかったですね。でも17日には、お金を持って群会議に出席していました。参加されている方は、年上の方ばかり。しかし、25歳の若造を仲間として迎えてくれたことに感謝しています。田無第2分会でした。
 少しずつ組合活動に参加し始め、青年部にも入りました。その仲間から「東京労働学校」に誘われました。どんなものかもわからずに、連れられて参加。会場には、いろいろな職場の若い人達がいました。
 週一回、夜の学校です。働く者の立場に立った哲学、経済、情勢などを幅広く学習します。しかし、講義内容は今までの自分の考えの真逆を行くとでも言うのか、理解できませんでした。
 終了後の交流会は楽しく、教室には通い続けました。そして、自分なりに学習する内に、ある時、ストンと落ちてきたのです。それは、あたりまえなんだけど、日本は資本家がいて、そして労働者がいるという、対立せざるを得ない階級社会なんだ、ということでした。今まで感じていた社会の矛盾の原因がわかった瞬間でした。目からウロコが落ちましたねえ。
 さて、60歳になる今年。まだまだ、これから。社会の矛盾と闘い続けたい。野党は共闘し、憲法を踏みにじり、嘘で固められたアベ政権をなんとしても、倒していきたい。
 ちなみに、連れ合いは、労働学校で知り合いました。(清瀬久留米)

▲ページの先頭へ


腹痛で無念の下山

5500mに挑戦するも
クレーンオペ 進藤藤男
 2015年5月に、遊びの師匠のTさんから「ネパール・エベレスト街道のトレッキング」へ誘いを受けました。トレッキングとはいえ最終目的地カラバタールは標高5500mを越えます。この機会を逃したら年齢からいっても、次の機会はないとおもい行くことにしました。
 10月1日に出発。まずネパール・カトマンズに向かい、そこから、世界一危険といわれるルクラ空港を経由して、第一の目的地ナムチェバザール(3440m)へ。登り下りを繰り返し到着するも、そこは高度順化のためだけの滞在で、さらに奥地を目指してトレッキングをすすめました。
 途中の景色は、空はあくまでも青く、聞えるのは風の音、渓谷の瀬音。アマ・ダブラム山(6812m)の真っ白な山容は、ただただ感激でした。チュクン(4743m)、チュクン・リ山(5550m)を登頂し、高度順化のためディンボチェ(4350m)に下山。
 その前あたりからお腹の具合が悪くなり、出るものが出ず、食欲がなくなりました。仲間に迷惑をかけることになるので、先に下山を決めました。2日かけ、ストックポールにすがりながらナムチェバザールまで下山。翌朝、カトマンズのホテルに連絡したら、「あと1時間でヘリを行かせられる」と聞き、慌てて荷造りをしヘリポートに向かいました。食べていないので坂道ではヘロヘロ。ヘリに乗りカトマンズ空港まで来ると、救急車が用意されていて、そのまま入院。治療ののち、何とか帰国することができました。(村山大和)

▲ページの先頭へ


羊の大群にビックリ

銀婚式記念し初の海外へ
内装 市場靖秋
 今から25年前、銀婚式を記念して、妻と初の海外旅行。8日間の日程で胸わくわくしたのを思い出します。成田からニュージーランド航空直行便で、北島、オークランド空港へ、時差プラス3時間で時差ボケもなく、快適でした。
 ツアーのバス移動の途中、道路の右側から左側へ、ヒツジの大群の横断に出くわし、渡り終わるまで車は両方向ともストップでびっくりしました。立ち寄った八百屋で店先にあったリンゴ1袋に50個ぐらい入っていて、5ドル、今ニュージーランドで1ドル80円前後ですから、もう少し安値だったような記憶です。
 当時日本ではまだ流行していなかったバンジージャンプに、ツアー仲間の中、妻だけが挑戦、高さ43m、吊り橋の上からジャンプ、川面すれすれまで数回アップダウンの繰り返し。終わった後で、認定証をもらってきました。
 自由行動日に、市内見物するために乗った循環バスの入口ドアが自動で閉まらなくなり、ドライバーがそのドアを蹴飛ばしたら閉まり、見ていた乗客みんなで大笑いしました。街中を走っている車は、ほとんど日本車でした。新車は高価だから日本で廃車になった車を大事に乗っていると聞きました。
 別の日に、サザンアルプスマウントストックへ、セスナ機で遊覧飛行。座席が機長の隣でラッキー。天候の都合で氷河に着陸できなくて残念でした。帰路の便で出発前の機長チェックで不具合発見、4時間遅れで無事成田空港着。またいつか行ってみたい旅先です。(三鷹武蔵野)

▲ページの先頭へ


戦争反対と言えぬ

祖母が話した時代雰囲気
瓦屋根工 向井明
 今から半世紀以上前、私が小学性の頃のことです。戦争ごっこが好きで遊んで過ごしていました。(白黒テレビで戦争物『コンバット』が高視聴率だった)そんな時なぜか、私のおばあちゃんに聞いたことがあります。
 「日本てさあ、昔戦争をしていたんだよね、大勢の人が死んだんだよね。なんで戦争があったの、誰も戦争なんかしたくなかったんだよね」「戦争はいやだ。禮造(私の父親)を戦争になんか行かせたくなかった。でも気が付いたら戦争のほうからやってきたんだ」「え?どこからきたの」「私らの頭の上のほうから」。私はおばあちゃんの住んでいた家が空襲で全焼したという話を聞いていたので問い続けました。「戦争って空から来るの」「そうじゃない、気が付くと直ぐそばに来ていたんだ」「じゃあどうして追い払うとか、反対しなかったの」「お国に逆らうと警察に捕まり、家に帰れなくなる。だから世間様みんなが戦争反対なんて、なんも言えなかった」。おばあちゃんとの、こんなおしゃべりでしたが、なぜか今でも忘れずに覚えています。
 昨年の秋、安保関連法(戦争法)が国会を通過し、南スーダンでの駆けつけ警護が始まり、私たちのまわりが戦争へと進んでいるような近頃です。私のような定年過ぎの年寄りは呼ばれないだろうけど、私たちの家族、子ども、孫が、お国に呼び出されどこかの戦場に行かされる恐れが出てきているんですよね。今こそ戦争絶対反対と、大きな声を上げたい。(八王子)

▲ページの先頭へ


武器はスクラムだけ

砂川闘争時の思い今も
塗装 黒澤利時
 日米安全保障条約とそれに基づく行政協定(現在は地位協定と呼ばれている)では、米軍は日本のどんな場所でも、米軍が要求すれば軍事基地を置けることになっています。現に日本の市街地を我が物顔に米軍機が凄まじい爆音で飛んでいます。この行政協定に基づき、1955年米軍は立川の砂川基地拡張を一方的に通告して来ました。もちろん地元の農民・町民は絶対反対でした。
 1956年秋、機動隊と現地の人たちが激突しました。全国から支援が入りました。全学連として支援に参加した私は武装した機動隊を目前にして、本当に怖かった。来なければよかったと思いました。でも親しい学友がたくさんいて逃げられない。私たちの唯一の武器はスクラムでした。自分を守るスクラムは隣の学友を守るものでもありました。
 泥だらけでごぼう抜きされながら、私は戦地で死んでいった叔父や空襲で死んだ友人の顔を思い出していました。高江も辺野古も同じで米軍の基地拡張のため連動しています。沖縄には豊かな自然があり、珍しい虫も花もあります。ここに基地が作られれば、絶滅してしまいます。サンゴ礁も消えます。
 日米安保条約と地位協定がある限り、日本政府は米軍に拒否できないのです。
 米軍は朝鮮で、ベトナムで、中近東で、日本の軍事基地を使って大量虐殺を行なっています。私にとって砂川闘争は未だ終わっていません。安保条約と地位協定を破棄するまで、闘いは続きます。(目黒)

▲ページの先頭へ


「道ばたに伏せろ」

怖かった空襲サイレン
内装事務 井上エリ子
 私は戦時中に小学1年から3年生まで、1学年1クラスだけの小さな分教所(海老名市)に通っていました。
 当時は学校に着くか着かない内に、空襲のサイレンが鳴り、近所のおじさんが迎えに来てくれます。帰る途中に、もうすぐそこまで戦闘機がきています。
 おじさんが、道ばたに伏せろと叫べば、すぐ伏せる。その頭上を戦闘機が平塚の方向へ通っていきました。私たちは無事だけど、平塚は空襲に遭っているんだと思いました。
 毎日がこのような事の繰り返し。勉強なんてしたか覚えていません。ただ、空襲のサイレンが怖かったことだけは心に残っています。
 1学期も終わり、夏休み。間も無く終戦となり、怖い戦闘機も来なくなったと思ったら、アッという間に、相模川の岸に、かまぼこ兵舎がずらりと並んで、見たこともない、背丈の大きな、鼻の高い外国人が大勢きてしまい、びっくりしたことも覚えています。
 戦争は終わっても、子どもの私たちには食べ物がなく、ひもじい毎日でした。それでもどうにか生き延びて、分教所の友とクラス会を10数年開催しています。子供の頃のひもじい、苦しい、悲しいことも、この友だちと分かち合えるからだと思います。毎年、また元気で来年もみんなと会えますようにと、願っています。
 今の日本が再び、あの恐ろしい戦争が出来る国へ行こうとする今。日本ばかりではない、世界の宝である9条は絶対に守ってほしいと願っています。(府中国立)

▲ページの先頭へ


母の教え守り今

感謝の気持ち忘れない
建築事務 鈴木美佐子
 母は石垣島生まれで、台湾の鉄道で働いていた西表島出身の父と結婚しました。母は私を昭和19年に台湾で出産しました。家族は終戦により沖縄に引き揚げることになり私は西表島で小学校に入学しました。しかし父が次男だったことで実家にいても、戦後の食料不足は悲惨でしたので、不自由がありました。先に上京していた私の姉の勧めもあり昭和37年に家族で上京しました。新天地では父は体を壊し、大家族の生活は母の肩にかかっていました。それだけでも感謝の毎日でした。両親は私に都立第一商高校定時制へ行かせてくれました。
 その後、学校からの紹介で建設会社に入社し現在の夫と知り合い結婚することになるのですが、母はその時こう言いました。「私たちは上京してから、一生懸命働いて、人並みに生活ができるようになったけど、あなたを東京の人に嫁がせるためのしつけも、何にも仕込むことが出来なかった」「何があっても夫の両親に反論せず、一生懸命に体を動かし家事を教えてもらいなさい」「親子が仲の良いのは嫁から」「夫婦の場合は妻から」「兄弟の場合は弟から」との教えがありました。
 私をここまで支えてくれた母の言葉を裏切ることないよう私なりに努力し頑張って来ました。一生忘れることはできません。その母も62歳で亡くなりました。私は今、夫や子ども、孫と仲良く生活していられることを「母」に報告できない無念を感じます。
 同時に母のたくましい人生を思い、親からの愛情に感謝し、誇らしく思います。(港)

▲ページの先頭へ


野球で病気を克服

体育優良生徒になった息子
塗装事務 相楽由美子
 今から約18年前に長男が突然腎臓の病気にかかってしまったことがありました。
 前日まで何事もなく保育園に通っていたのに、ある日の朝、まぶたがむくんでいたので病院に行くなり、長期の絶対安静と食事制限、入院が必要と言われました。昨日まで普通の暮らしを送っていたのに戸惑うばかりでした。
 医師の話ではこの病気を完治させるのは難しく、風邪を引いても、蚊に刺されても再発しやすく、運動もダメ。ということでした。「これからの人生は本を読んだり絵を描いたり、家の中で過ごす生活を送った方が良い」と言われ、それを「野球チームに入りたい」と言っていた5歳の息子に告げるのはとても残酷でした。
 それでも息子は「早く治して野球がしたい」「僕は大丈夫」と言いました。薬の副作用で顔も膨れ、身長も伸びず、免疫力も低下していく息子。味のない食事や夏でも蚊にさされないように長袖長ズボン姿でも一つも文句を言わぬ息子に涙する毎日でした。
 病は気からという言葉通り、本人の強い気持ちと努力、家族の思いが通じたのか、10歳の頃には軽い運動が出来るほど回復しました。ついに念願のリトルリーグにも入部し、その後も快調で中学、高校と大好きな野球を続けました。なんと高校卒業の時には都の「体育優良生徒」に選ばれました。当時の石原慎太郎都知事からいただいた表彰状は我が家の宝物です。
 20歳で保育士になり、今年で23歳になりますが、子どもたちと一緒に体を動かす毎日を過ごしています。(荒川)

▲ページの先頭へ


2度も意識不明に

両親も短命な子と心配
内装 成瀬晃一
 私は10歳ぐらいのとき2度も頭に怪我をして意識不明になってしまいました。
 昭和40年代テレビ漫画の「タイガーマスク」に影響を受けたプロレス遊びが子どもたちの間ではやりました。
 小学校の休み時間にはバックドロップを仕掛けられ、私は頭から真っ逆さまに落っこちて意識不明となりました。
 数時間後に病院で気が付いたときは脳波検査も終わっていて医者も「多分大丈夫だろう」という事で両親も胸を撫でおろしたそうです。
 ほどなくしたある日、自転車で帰りを急いでいた時に、家の目の前の横断歩道を渡り始めた途端、乗用車にはね飛ばされ、また意識不明になりました。病院で脳波の検査を受け「多分大丈夫だろう」と言われ安心したものの、全身打撲で1週間学校を休まざるを得ず、勉強についていけなくなるきっかけになってしまいました。
 相次いで事故にあう私に対し両親は、「この子は成人になる前におっちんでしまうだろう」とあきらめていたそうです。
 意識が戻ったおかげで現在は組合の役員として活動出来ている事を忘れえぬ事とし、晩年となった今、目立たぬ様に静かに暮らしています。
 あの時の感謝の気持ちを少しでも社会に恩返しをしようと、30歳の時に骨髄バンクに登録しましたがあと2年程で定年登録抹消になります。せめて1回くらいはドナー提供してみたいものです。
 そして2度も生かされた理由を確認出来ると本当に嬉しいと思います。(板橋)

▲ページの先頭へ


畳屋で6年間修行

家計軽くしたいと職人に
畳工 鈴木吉郎
 中学を卒業した昭和30年頃は、不況の真っただ中でした。
 私が7つの時、父が亡くなり、母が6人の子どもを育てました。母の苦労が身に染みました。家計を軽くするため役立ちたいと考えました。私は、何かすぐお金になるように役立ちたいと考えました。
 私は、何かすぐお金になる仕事がないかと探しましたが、田舎は工場も少なく、すぐにお金になる仕事はなく、職人にならざるを得ませんでした。何になろうか悩んだ末に、畳屋になることを決心し、田舎で1番と言われる畳屋に就職しました。
 まったく何も知らないところに、内弟子として入り、しかも兄弟子が3人いました。食費と仕事着は親方がもってくれましたが、月2回の休日に、1回百円のこずかいでした。その頃は、テレビもなく映画が3本立てで65円でした。映画を見て帰りに30円の支那そばをたべるとなくなりました。
 故郷は山形県です。冬は寒く、朝早く起きて掃除を、水拭きし、濡れた手で仕事の支度をし、藁をいじるので10本の指に「あかぎれ」で血が滲みます。薬も買えないので黒い糸を貰い、指に縛り食い込ませ直しました。
 畳の針を持たせてもらったのは、3年ぐらい経ってからで、それまでは畳床作りばかりでした。早く一人前になろうと、みんなが休んでから古畳に針を刺して練習をしました。
 そして辛かった6年の年季が明けるのをまって夢に見た東京に向け出発しました。(小金井国分寺)

▲ページの先頭へ


脳天をゲンコツで

戦地経験ひきずった父
建築サービス 白倉和行
 私の父は戦争に行った。父は42歳という若さで亡くなったが戦地から帰ってすぐに母と知り合い結婚したらしく、12~13年の結婚生活の後、その短い生涯で私達兄弟をこの世に遺し逝ったのだ。父はとても無口な人で毎晩酒を浴びるほど飲んでいたことを思い出す。ただ飲むだけで翌朝仕事に行く事の繰り返しだったが、亡くなって後に母から聞いた話では戦争の辛かった体験がずっと父を悩ませていたようだった。
 私達幼かった兄弟には父の思い出があまりないが、ある時兄弟ゲンカをして弟の物を壊した時、すごい剣幕で怒られた。物を粗末にするなとの事だと思うが、脳天をゲンコツで一発殴られた。父から叩かれた事はその一回だけだったと記憶に残っている。あの痛さの事が残っていて今では懐かしい思い出だ。
 最近世間は戦争法案等で何やら危うい雰囲気だがこの平和な日本を先人達の尊い命と引き換えに得た幸せを失いたくないものである。同盟国とやらに乗せられて71年前に戻ってはならない。
 どこやらの大統領選挙があるが一人の候補者を見ていたとき、モノクロの昔の記録フィルムで演説していた一人の姿が目に浮かんだ。独裁者ヒトラーである。そう言えばあのトランプとかいう人はドイツ系アメリカ人だ。
 我が国の総理も方向を誤らないように我が父の痛いゲンコツを脳天にお見舞いし、もう一度日本の進むべき道を考え直してもらいたいものだ。後でツケを払わされるのは私達なのだから。(多摩西部)

▲ページの先頭へ


加熱用カキを生で

「胃」丈夫な夫に感謝
建築事務 名古屋純子
 好きな人ができても、片思いで終わることが多かったので、何時のころからか結婚するなら、お見合いで結婚するんだろうと思っていました。
 私が22歳の時、母が互助会に入っていた関係で、お見合い話がきました。その日はどしゃ降りの雨だったことをいまでもはっきりと覚えています。それから半年後に主人と結婚しました。後から知ったことですが、主人との縁はそれ以前にあったのです。
 私が小学6年生の2学期に、墨田区からひばりヶ丘へ越してきて、転校したクラスに病気入院していた男の子がいました。その子とは一度も顔を合わせることもなく中学へ入学してから間もなく、亡くなったという連絡がきて、お葬式に行くことになりました。主人はそこに叔父として参列していたそうです。
 まさかそれから11年後に主人とお見合い結婚するとは夢にも思っていませんでした。結婚相手とは、赤い糸で結ばれているといわれていますが、本当にあるんですね。
 若くしての結婚生活は、ままごとのようでした。忘れられない失敗があります。加熱用のカキを酢の物で食べさせたことです。今思い出してもぞっとします。丈夫な胃の持ち主だった主人に感謝です。
 7歳違いの主人には、教えられることもありましたが、叱られることもありケンカしたことを思い出します。その主人も2年前にこの世を去りました。3回忌を過ぎて夢であえるようになりました。今は亡き主人に感謝しながら1日1日を大切に生きていこうと思っています。(西東京)

▲ページの先頭へ


レシピなどもなく

まねできぬおふくろの味
電気 佐藤雅一
 ありきたりだが「おふくろの味」は忘れられません。母が亡くなり1年と少しが経ったが無性になつかしい。思えば何の変哲もない料理でした。豪華けんらんとか、具材が高級、そういったものは皆無でした。
 例えば焼きおにぎりは、ただ焼いて醤油をかけるだけですが自分で何度も作ってもあの味は出せないのです。きんぴらごぼう、ひじきの煮つけ、厚揚げを甘辛く煮たものなど、どれもこれも同じ味は出せませんでした。自分の思い込みもあるでしょうが、同じ味どころか近づくことさえ難しいものです。
 子どもの頃は母の料理が上手だと思っていませんでした。むしろ下手とさえ思っていました。特に弁当です。
 友人の弁当を見るとおかずが彩りよく飾ってありいかにもおいしそうでしたが、母の作った弁当はおかずが貧相に見えて、恥ずかしく思って、隠すようにして弁当を食べていました。
 母の葬儀の後、従姉より母の料理について「おいしかった」と意外なことを聞き、それから母の味を再認識したのです。自分で料理をすると分かるのですが、物を焼いたり煮たり炊いたりというのは簡単にはいきません。
 いま気づいても遅いですが、生前にレシピを教わっておきたかった。といっても母は、分量は目分量で計量カップなどは使っていなかったのでレシピなどは無かったのでしょう。
 何気ない料理を味わえた日常は貴重なひと時だったとしみじみ思います。(杉並)

▲ページの先頭へ


給料今の5倍出すぞ

義兄に誘われタイル屋を
タイル 椹 三寛
 人生の転換期。世に言う脱サラです。「サラリーマンをやってた人間がどうして建築職人なんかできる訳がない」。と両親からは猛反対され、まして所帯持ちで子どももいたので尚更の事でした。
 しかし私の決意は強く「親の反対で己の決心を曲げてたまるか」と反発し自分の意志を貫きました。ただ一人賛成してくれたのは女房で「男が一度決めたら貫いたら」と言われ心強くなり前向きになれたのも確かです。
 義理の兄貴がタイル業を営んでおり「ヤル気があるなら今会社でもらっている給料の5倍は出すぞ」と誘われたのも正直いって脱サラのきっかけになったと思います。
 いざ職人の世界に足を一歩、踏み込んだら別世界、今まで兄貴と呼んでいたら「親方と呼べ」と言われ、道具の名前も初物づくしでサッパリ解らず、解っていたのは砂・セメント・水ぐらいでした。
 その時すでに二人の兄弟子がいましたので、彼らの手元をやるだけで精一杯でした。「技術は盗んで覚えろ」とよく言われましたが見習い中はなかなかそんな時間は取れません。早く技術を身に着けようと思いつつ3年の月日が流れました。
 「職人は一生修行」だと言われますが、私も一人前になりお礼奉公した後に独立しました。すでに東京土建に入っていましたが、もし建築界に足を突っ込んでいなければ今の私は無かったですね。人生なんて何処で変わるかわかりません。70歳過ぎて感じる今日この頃です、年のせいですかね。(大田)

▲ページの先頭へ


集団自決した姉

追い詰められた開拓団
左官 今井雄吉
 私の2番目の姉ミエは昭和11年4月、満蒙開拓団の先生で伯父と新潟港から中国に渡り、現地で大工の小林さんと結婚。3年後、満州東安省哈速河(ハタホ)に3番目の姉ムツも呼ばれた。昭和20年5月、開拓団の幹部十数人を残し、男性は根こそぎ軍に招集された。後に残るは女性・子ども・老人だけ。
 8月10日早朝に「団本部に馬車で集合せよ」との命令があり、開拓団は夜半の雨の中を生活品・食料・子どもを乗せ本部へ。ミエの家族は馬車がどぶに落ち、荷物の積み替えに手間取り団本部の集合に間に合わなかった。
 開拓団本隊は避難の際、見通しの良い大平原を馬車100台以上で移動。そのためソ連軍の戦闘機に見つかり徹底的に攻撃され、10日の夜には馬車10数台に。
 11日以後は徒歩避難になり12日午後、麻山(マサン)地区まで来た時に前方から100人ほどの日本兵が退却して来た。
 その向こうにはソ連戦車隊がいて、左側の山越えを団幹部が相談し始めると、貝沼団長が「女や子どもを連れて山越えは無理」と、“天皇陛下バンザイ”を叫びピストル自決。団幹部たちも「多数生還」の希望はないと“全員自決”を決め、8月12日午後6時半、子どもたちやその母親たちなどを3つのグループに分けて殺害、ムツも伯父の妻たちと共に伯父に射殺された。
 ミエは団の後を追い避難する途中、他から避難してきた日本人にその事実を聞いたという。戦争の無残さを伝え続けていきたい。(足立)

▲ページの先頭へ


子ツバメにハエを

飼育する兄から大目玉
電気 西村滋雄
 私の生まれたところは標高800mの山の中、秋田と岩手の県境で、奥羽山脈のど真ん中。積雪4mは毎年のことで、永い冬を過ごし、春を迎える喜びに心を躍らせたものです。そんな春の証として、5月~6月にツバメの大襲来があるのです。この前、一泊常任執行委員会で福島へ行く時に寄ったSAでツバメを見て、思い出がよみがえってきました。
 私の住んでいた山は三菱の銅鉱山で、大きな精錬所があって、その屋根の軒に何十個かのツバメの巣の長屋ができるのです。そして、何十羽も飛び交い、電線にとまりますが、その巣からたびたび子が落ちて死んだ子ツバメもいっぱい見ました。
 小学4年生の頃、3才上の兄が落ちたツバメを拾って来て、家で飼い始めたのです。兄が一生懸命その子ツバメにエサ(ハエや小虫など)を与えている姿を見て、なんとなく私もエサをあげたくなり、家の近くで飛んでいるハエを捕まえ、押し入れを開け、「ピー、ピー」とエサを求めて鳴いている子ツバメに、大きなハエをそのまま、与えました。子ツバメは元気に飲み込み、食べてくれたと私は喜びました。兄が帰ってきて、子ツバメの様子を見に押し入れを開けてビックリ。グターとして動かない子ツバメ。私の与えた大き過ぎたハエのせいで喉を詰まらせてしまったのです。
 私は兄貴にこっぴどくしかられました。ツバメを見る度に思い出す、忘れられないことです。その山もその後閉山になり、戻ることもできなくなりました。(日野)

▲ページの先頭へ


厳寒の雪原に数時間

映画製作の大変さ実感
内装 高橋成允
 東京土建も制作や上映会に協力した映画「日本の青空」シリーズの「いのちの山河」と「渡されたバトン」の土建共済会主催のエキストラツアーに数年前に参加し、実際のロケ現場を体験したことはよく思いだします。
 「いのちの山河」では憲法25条(生存権)がテーマでした。昭和30年頃「豪雪、貧困、多病」に苦しむ岩手県沢内村の老人医療費無料化、乳幼児死亡ゼロを実現した深沢村長。村長が病死し猛吹雪の中を山伏峠を越えて村に帰って来る車列を村人が迎える感動のラストシーンは東京土建仲間と地元のエキストラが厳寒の雪原に数時間立ちつくして撮影されたシーンで、その時の寒さは忘れられません。
 「渡されたバトン~さよなら原発」は、住民投票で巻町(現新潟市)の町民が「原発NO!」を選択した27年間をドラマにした映画です。現地に向かうバスの中で住民集会の場面で唄う「翼をください」を練習したり、「大げさに首を振ってうなずいたり」してとの説明を受けての撮影で、集会場面では前列に座っていた東京土建の仲間が何度か映っていました。
 撮影後会場の野外でシュプレルコールを全員で大声で叫びましたが映画の中でのデモ行進の音源はその時練習した叫びが使われていて、「東京土建さんはさすがですね」とほめられたようです。ワンカットずつの撮影でほとんどが待ち時間で映画製作に数億の資金が要するといいますが、あれだけの人件費と日数がかかれば当然かなと思いました。(小平東村山)

▲ページの先頭へ


若いやつらは遊べ

亡き父のひと言に感謝
大工 伊関伸二
 今年で、組合歴30年になりました。当時、高校卒業後、職業訓連校に通いながら父の工務店で働いていた。22歳の時に加入したらしい?そんな時、父から「今日、青年部が集っているから行ってこい」との命令。元来、人見しりで、気弱な自分が恐る恐る夜の組合事務所へ向かった。
 部屋に入ると部長と数人の部員を紹介され、後は遊びの話題に花を咲かせ、「また今度な!」と次のお誘い。毎月開かれる部会の中身は取るに足らないもので、早早に切り上げ朝まで飲み明かすこともしばしば。そんなことを続けながら、父にきいたことがあります。「青年部は遊んでばかりいるが、これでいいのか?」返ってきた答えは「若いやつらは、遊んでいればいい」と豪快な答えに驚きながらも納得している自分がいました。当時、青年部自体、再結成したてで、何をやっていくか手探りの状態でした。
 そんな中、本部主催のバレーボール大会やソフトボール大会は、参加者を集め、結果はともかく打ち上げを含めて大いに盛り上ったものです。その後もメーデーデコレーションを青年部だけで作り上げ、仲間の絆を深めていきました。伝統建築見学会と銘打ち、一泊旅行も一大イベントでした。集会の時には青年部の旗を掲げ、アピールすることも忘れませんでした。
 今、支部副委員長で多忙な日日を過ごしていますが、30年前、組合に送り出してくれた父に感謝しています。しかし、それが父の思惑通りだとしても、今は亡き父の答えはわかりません。(文京)

▲ページの先頭へ


ギター得意だった弟

看護師がリクエスト
屋根 小川延男
 昨年の正月、末期がんで終末医療を受けていた末弟が父親と同じ歳の63歳で亡くなりました。弟の死はまるで私の体の一部がもがれた様な気がします。私との間に姉3人をはさんだ末っ子で、私とは10歳も年が離れていました。
 50歳の子で、周りからはお孫さんですかといわれるほど老けて見えた父が、63歳で亡くなると、私は12歳になったばかりの弟の親代わりとなりました。
 そのころ私はギターを習い始め、爪引きだけでは単調なので弟にコード伴奏を無理やり弾かせました。弟はギターを弾けるようになったのは、兄貴のお陰だが小遣いをせしめられたと、こぼしていました。22歳の私が父親代わりで母と弟妹4人の暮らしを支えるため、必死で働いていましたが、ふところに余裕がなく、弟の新聞配達で貯めた小遣いで、ウクレレやマンドリンなどを買わせたのでした。
 駒込病院へ入院しましたが既にがんはリンパに転移をしており、余命3カ月と医者に宣告されました。
 弟は寿命の尽きるまで、好きなギターを弾きたいという願いきき届けてもらい、毎日終末医療センターで看護師らのリクエスト曲を弾くのが最後の楽しみだったようです。
 余命3カ月といわれたのが1年半も長生きした弟でしたが父親の寿命63歳を越えることが叶いませんでした。
 最後はそれほど苦しまずにあの世へ旅立ちました。私は形見に貰ったギターをつま弾くたびに弟の笑顔が瞼に浮かび楽譜が見えなくなります。(北)

▲ページの先頭へ


細工や技術を競う

本気勝負のベーゴマ
塗装 石垣雅之
 私が小学生時代を過ごしたのは渋谷区恵比寿、5年生の時に、東京タワーが完成し、母校の長谷戸小学校から建設途中の東京タワーがよく見えました。戦後の廃墟から立ち直り始め、これから高度経済成長へ突き進もうという、いわば「三丁目の夕日」のような町でした。
 そのころの子どもたちの遊びは、最近ではめったに見られなくなった缶けり、鬼ごっこ、ボール遊び、縄跳び、ゴム縄、立ち馬、ビー玉、剣玉、ヨーヨー、こま、めんこ、ベーゴマ…などメンバーや場所に応じてさまざまでした。
 この中でもめんことベーゴマは、勝った者が相手のものをもらえるという本気勝負が主流であり、とりわけベーゴマは、勝つために子どもにとっては高度な細工と技術も要求されました。
 床(バケツかタルの上にシートを敷いたもの)の中でいかに相手を弾くか、長く回り続けられるか、そのため色いろと細工をする。下垂部分にヤスリをかけて高さを低くしたり、するどくとがらせたりする、八角形の各辺をヤスリで大きくするどくする、上面にロウやはんだや鉛を流し込み重くするなどです。また、回っている相手めがけて上から叩きつけるように入れ、相手を弾き飛ばす「ガッチャ」、横から相手を突き飛ばすようにして入れる「ツッケン」などの高等技術も競い合ったものです。
 数年前地域の祭りに分会でベーゴマ遊びを企画したところ、ほとんどの子どもが初体験で、床の上で回せるのはわずかでした。(清瀬久留米)

▲ページの先頭へ


頭がよかったシロ

家族の人気を集めた
大工 宮澤良明
 私が、小学生時代のことです。今も記憶にはっきり残っています。入学を控えた私の前に、生まれて間もない仔犬が現れました。父が知人宅で生まれた仔犬数匹のうち一匹を譲り受けて来たのです。
 すぐ仔犬の名前は「シロ」と名づけました。理由は簡単です。体が白かったからです。当時、町内で犬を飼っている家は少なく、たちまち人気者になりました。また、兄とはよく散歩に連れていくのはどちらなのか、争奪戦をやりました。夏には川遊び、冬は雪の上を走ったり、放課後は夕食までの間と、いつも一緒に遊んで過ごしていました。
 シロも成長すると時時、首輪抜けし、夜の自由時間を満喫しては帰ってきたことも。一度は家族総出の捜索なんてこともありました。やんちゃな性格ではありましたが、それなりに頭のよい犬でもありました。テレビを見ながら笑うこともしばしば!?
 そんな彼にも異変が起こりました。犬小屋に入ったっきり、姿を見せようとせず、エサも水も取らなくなったのです。そんな状態が10日も続いたでしょうか。小春日和の小学校最後の文化祭の日、母が庭で洗濯物を干しながら、シロに声をかけたのです。
 「暖かくて気持がよいから出ておいで」。その声にうながされたかのようにトボトボと出てきて、母の足元で水をひと舐めするや横たわったのです。彼の最後でした。
 別れは悲しいことでしたが、シロと楽しく一緒にすごしたことは、なににも勝る思い出、私の「忘れえぬこと」のひとつです。(村山大和)

▲ページの先頭へ


石焼きイモと桜

祖父と父続けて見送る
タイル 佐藤眞理子
 私はわずかひと月の間に大切な家族を2人も天国へ見送りました。
 祖父は96歳で老衰によりこの世を去りました。老衰とは不思議なもので読んで字のごとく身体が老化しおとろえた部分から順番に壊死してしまうのです。
 年末の慌ただしい中、突然祖父が腹痛を訴え病院で診察を受けると、すでに腸が壊死しているのでただちに入院するようにといわれました。
 それでも腸以外は元気な祖父、「石焼きイモ」と呼びかける声がかすかに病室まで届くと買って来てくれと私にねだるのです。食べられないでしょと私がいうと祖父は匂いだけでもよいからといって再びねだるのです。根負けした私は医師に相談し、買って来た石焼きイモが祖父にとっては最期の食事となりました。
 一方、父が胃ガンと診断され手術を受けたのは67歳の時でした。開腹はしたもののすでにガンは転移していて、もはや手のほどこしようもありませんでした。
 闘病生活の中で唯一父との思い出は妹と車イスを押しながら病院の中庭でお花見をしたことです。来春はもうこの桜を3人で見ることはできないのだと思うと何か熱いものが胸にこみ上げて来るのを私は必死にこらえました。
 やがて綺麗だった桜も散り、父もまたこの世を去りました。2人の遺影にそっと手を合わせている母の背中は心なしか小さく丸くなったように思いました。
 親孝行をしなくちゃと思いながらも16年が経ち今春17回忌を迎えます。(調布)

▲ページの先頭へ


ベイスターズ優勝

喜び分かち合った一夜
ビルメン 片山雄二
 1998年10月8日今まで味わったことがないよろこびの瞬間を迎えました。私は学生の時、わずかな期間でしたが横浜スタジアムでビール売りのアルバイトをしていました。それまで野球観戦をしたことがなく、野球場はとても新鮮でした。
 当時のビール売りは瓶での販売で今のサーバーや缶よりかなり重くて大変でした。それでも売った数だけ収入になるのでがんばって売る努力はしましたが、当時の横浜(大洋)は現在ほどの人気はなく、観客は少なくて巨人戦以外は半分以下の収入しかならなかったのをおぼえています。
 そんなきっかけで横浜(大洋)ファンになり応援していた15年後、前回の優勝から実に38年ぶりのこの日。雨天順延で日程がずれ、夜勤明けの新幹線に乗り甲子園球場に行くことができました。
 試合は始まっていましたが友人と3塁側内野席に座りでき運命の時を迎えました。大魔神佐々木が阪神の新庄を三振に打ち取り、歓喜の瞬間が訪れたのです。
 その後、梅田で祝杯を上げ、翌日仕事がある友人とともに大阪駅から寝台列車で帰路につきました。
 梅田の街も大阪駅も寝台列車もみんなベイスターズファンがあふれみんなでよろこびを分かち合い最高の一夜となりました。その後の日本シリーズを制しシリーズ勝率100%を達成。(2回だけですが)あれから17年。ずーっと低迷している姿を見ているともう私が生きている間に優勝はないのかと思う日日です。(多摩・稲城)

▲ページの先頭へ


妻子にありがとう

周囲の後押あって独立
石工 伯耆田宏
 私は10数年、職人として仕事をしていましたが、2年程前に親方が亡くなり独立を余儀なくされました。しかし、ずっと親方に甘えていた私は独立のための準備ができておらず、それからの1年余、すべてがうまくいかない日日がつづきました。これまでつちかってきた技能が認められず、力量が足らないことを思いしらされ、いったんは別の親方の下で働きました。この期間は、まわりの人、妻など、誰も彼もに迷惑をかけ、八方ふさがりで息の詰まる日日でした。支え励ましてくれたのは妻でした。
 先の見えない日日を抜け出すために、多くの人の力を借りました。独立を迷う私の背を最後に押してくれたのは、やはり妻でした。
 それからも手探りの日日が続きましたが、仕事仲間にも恵まれ、なんとか今日を迎えています。昨年10月には長年待ち続けたわが子を授かり、幸せな日日を送っています。私の勝手な想像ですが、妻と二人で先の見えない道を抜け出せたとき、神様が「いまの二人なら大丈夫」と授けてくれたのかな、と思っています。自分たちの親が私にしてくれたように、何があっても子どもの味方でいよう、守ってあげようと思います。妻に産んでくれて、子に生まれてきてくれて、ありがとうの気持でいっぱいです。
 私の人生はまわりの後押しと勇気で大きな転機を迎えました。これからの人生、感謝の気持を忘れず、家族や友人、信頼できる人たちと過ごしていけたらさいわいです。(新宿)

▲ページの先頭へ


震災と空襲の記憶

変貌する街で風化ゆるさず
タイル 浅見英夫
 つい数年前まで友人にこんな質問をよくした。「しっている?京成と東武の本社って押上にあるって?それも200~300m位近くにあるんだよ」。答えは「えっーそうなの。しらなかった」だ。
 両本社の間には砂、砂利の置場や貨物ヤードがあり、コンクリート工場が2社もあって、昼はミキサー車がひんぱんに出入りし、夜は人もまばらな暗い空間が広がっていた。今もくらす街の一昔前の姿だ。
 今そこには現代の五重塔、スカイツリーが昼は藍白に光を反射させ、夜は粋と雅に彩られてそびえ立つ。業平橋駅が「とうきょうスカイツリー駅」へと変った。見たこともないナンバーの車や大型観光バスが朝早くから行きかい、一方通行を逆走する車がふえ、老若男女多国籍の観光客が闊歩(かっぽ)、ゴミのポイ捨てと飲食店の数と人口がふえ、地価が上り、時間貸の駐車場料金も上った。
 この街は大きく変貌中で新たな街へと脱皮をくり返していくのだろう。しかし93年前や70年前も大変化があったことは伝え続けなければと思う。あの日にあったことを。
 大正12年9月1日の関東大震災、昭和20年3月10日の東京大空襲。主体的に変容したのではなくさせられた記憶。地元民、都民、国民としても風化させてはならないあの日。祖父母、父母、近所の長老からきいた生の体験。つらく悲しい現実。この街に生まれ育ち継いでいく私たちに課せられた荷はまだ降ろせない。今が踏ん張り時。なぜか胸さわぎが止まない。(墨田)

▲ページの先頭へ


御影石に水鉢掘り

職人の何たるか伝えられた
造園 平澤源司
 私は46歳で出版社をやめて造園業に転職しました。修業で入った植木屋の親方は、親切な方で何でも教えてくれましたが、1日8000円の日当で一家5人ぐらしは大変なことでした。会社勤めのころのように人間関係に思い悩むこともなく、青空のもと樹木に囲まれながら、心身ともに健康と感じられる日日でしたが、雨と雪で休みになると家計の苦しさが重くのしかかってきました。
 1月の雪の日でした。親方から電話で「仕事を作ったからよかったら出てこい」と。急いで仕事場へ行くと、御影石の土台に使う石が置いてあり、「この石で水鉢を作りたい。ハツリ棒で水鉢を掘れ。手で掘った水鉢でつくばいを作る」との指示でした。
 私はハンマーとハツリ棒で御影石を掘り始めましたが、石にはね返されて、なかなか進みません。ハンマーで手をたたいたり、軍手が手にはりついて、豆がつぶれたり、ご飯の時にははしが持てず、茶碗を持つ手が震えて一生涯で一番つらい思いをしました。3日目に親方に見せたら「鉢が浅い。もっと深くしろ。水鉢は深い程美しく見える」といわれ、さらに3日打ち続け、やっとOKが出ました。
 豆がつぶれて、また皮ができて、職人の手になったのかなと、今でも思い出します。親方は私に雪で仕事がない中でも、仕事を作ってくれました。ことばでなく、私に仕事を通じて職人の何たるかを伝えてくれた気がします。
 私もそんな親方の仕事の伝承の仕方を、見習わなければと思っています。(西多摩)

▲ページの先頭へ


わけもわからず涙

母ときいた玉音放送
大工 鈴木功
 私の父が出征したため、母の実家である、現在のあきるの市、五日市に疎開しました。
 昭和20年8月15日、私は尋常小学校の1年生で、夏休みのため近所の仲間と朝から、川に遊びに行っていました。昼近くになって腹が空いてきたので、帰宅に向かいました。
 家では近所の人が5~6人集まって、何やらラジオをきいていました。母もその中にいて、顔をぬぐって泣いていました。不思議に思って母にきくと、日本が戦争に敗けたのだというのです。近所の人たちも一緒に泣いていました。私も何が何だか判らなかったのですが、一緒に声を上げて泣いてしまいました。
 これが天皇陛下の玉音放送だったのです。この放送を中止させるため、一部将校の反乱があったようですが、無事放送されました。この放送で終戦となり、判断を下された昭和天皇に感謝したいと思います。この1年後に父が無事帰還し母とともによろこんだことをおぼえています。
 新憲法作成にあたっては、青年劇場「真珠の首飾り」の舞台のような過程で制定され、戦後70年、平和憲法のもと、世界の戦争、紛争に巻き込まれず、誰も殺さず、日本人の誰も死なず、すばらしい70年でした。でも、最近の日本政府は、国民の安全と称して、憲法違反の戦争法案を作ってしまいました。昭和20年8月15日の日本人の流した涙は、戦争に敗けた悔し涙だけではないはずです。これから戦争をしなくていい、この玉音放送が半月前に流れていれば、広島、長崎の悲劇はなかったかもしれません。(港)

▲ページの先頭へ


新婚で職人と同居

弁当作りに送り迎えも
主婦 吉田ミサ子
 60年の昔の話になります。品川区武蔵小山に土地を持っていた同郷の方に夫が20坪を3年間で借り、田舎で木材を刻み、建前をできるようにした材料を、トラックで運び新築しました。壁も塗っていない平屋建てでしたが、部屋が3部屋と台所がありました。
 ここから結婚生活がスタート。当初から夫の職人と5人ぐらしでした。式は福島で挙げ、上京の時は主人の母と私の姉が一緒に東京まで送ってくれ、近所へあいさつ回りをしたりしましたが、とにかく東京は外国みたいでした。
 3年間はあっという間に過ぎ、今の二葉町に夫と職人で再び家を建てました。弟子たち3、4人は住み込みが続き、子どもたちが生まれてからも何でも職人が優先で、毎朝の弁当作りなど大変でした。娘が6年生のとき、「お父さん。いつになったら家族だけの生活ができるの?」といわれ、それからは弟子をとらなくなり、だんだんと家族だけで過ごせるようになりました。職人たちはアパートを借り、通ってくるようになりましたが、職人たちも一緒に花見や海水浴にも行ったりもしました。私も運転免許を取り、現場かけ持ちで車で送り迎えしていた時期もありました。
 時は流れ、アパートをつくったり、昭和62年には今の家を建て替え、それから1年経たずに夫が59歳で舌ガンに。大手術でしたが、土建国保は当時10割給付で助かりました。その後、入退院もくり返し、流動食は15年も続きましたが、好きなお酒を飲むこともできました。今秋、13回忌をすませました。(品川)

▲ページの先頭へ


一人では生きられぬ

ケガで気づいた人の優しさ
ガス配管 齋藤政晴
 9年前の早朝、前日に降った雪も止み、職場に向かおうと家を出たとたん、凍結した道路に足をとられ転倒。左足首に全体重がかかり、グキッと音がして骨折したな、とわれながら確信した。
 救急車で運ばれ、その場でけん引のために麻酔なしで左ひざの両側にドリルで穴を開け、脱臼骨折した左足首の先におもりを吊るした。2カ月前に父を亡くしたばかりで、たび重なる不運に神様さえも恨んだほどだった。1カ月後、左足首にプレートを入れボルトで固定し、松葉杖で職場に復帰した。
 痛さをしることで気づくことがあるときいたが、まさに自分がそうだった。常用先で1カ月休むので代わりをと話が出たが、上司が自分の居場所を確保するため、かたくなに断ってくれた。また席から1番近いトイレは女性用だが、女性社員たちの好意で使わせてもらった。
 車は不可欠なのだが、自宅近くにはセルフのガソリンスタンドしかなく松葉杖姿で操作していたら、店員がかけつけて給油ノズルを持ち、給油してくれた。「セルフ給油なのにいけないのでは?」ときくと「これは給油の補助行為だからいいのです」と自信にみちた顔でいわれた。
 テレビドラマの金八先生で「人」という字は人と人が支え合っているといっていたのは誤解だが、優しさにふれ、この時は金八先生の解釈が正しいと思った。人は一人で生きてはいけない、どんな人でも必要とされる、人の長所を探そうと誓ったケガだった。(江戸川)

▲ページの先頭へ


みじめさくり返すな

手間10円なのにパン10円
大工 坂井 進
 1948(昭和23)年ごろ、まだ東京は空襲の傷跡で焼けた空き地が多かった。当時私は、大工だった義兄と川崎から上野駅周辺に満員電車で通っていた。
 お金が旧円と新円に代わるころで、私の手間は一日10円で、闇市で酒マンみたいなパンが1個10円で、腹が減っていても買えなかった。
 映画館で「新馬鹿時代」という喜劇をやっていたころ、御徒町で貴金属卸問屋の店舗兼住宅の仕事をしていた。全国から仕入れ業者がリュックサックやボストンバッグに、新10円札や百円札をぎゅうぎゅうに詰め込み、持ってきた物を床にあけ、山になったお札を番頭たちが一枚一枚シワを伸ばして束ねて取り引をしている、映画と同じ場面を目の前にしてため息が出た。
 上野駅の正面入り口の横には大勢の浮浪者が上半身裸で日向ぼっこをしながら一列に並び、シラミ潰しは日常茶飯事だった。この時代に家を造る人たちはそれなりの金持ちだ。10時、3時の休みには、家でも食べられない物ばかりで、それも日替わりで出てくる。家では雑炊くらいしか食べられないのに、この差は何だろうと思った。
 上野の黒門町で料理屋を新築した時、1階に通いの服と弁当を置いて2階で仕事をし、昼に降りてきたら、義兄と私と2人分の物が靴まで全部、浮浪児に持ち逃げされていた。幸い、建主が昼飯と衣類を支度してくれた。当時は、そんな話が多かった。これも戦争という愚かな行為のため。こんなみじめなことをくり返してはならない。(町田)

▲ページの先頭へ


命の尊さを実感

夫は入院 孫は生まれて
主婦 斎藤裕子
 3年前の11月のことです。夫は数日前より医者にかかっていました。いつもは日曜日になると、朝5時から午後2時まで夏でも炎天下の中でも、ソフトボールをする元気じいさんでした。
 嫁の純ちゃんから「お義父さん。陣痛が来たら産院に車で送ってくださいね」と頼まれていたので楽しみに待っているところでした。
 その日、夫は朝から体調が悪そうだったので医者に行かせましたが、なかなか帰ってきません。昼過ぎになり病院から「救急車で他の病院に入院しました」と連絡が入りました。驚いた私は不安を抱きながら準備をし、急いで病院に向かいました。病院に着いてから、入院手続きを済ませ、検査を見届けました。
 その間に純ちゃんから陣痛のしらせがきたので、事情を話して、子どもと一緒にタクシーで産院に行ってもらいました。私はその後、上の子をみるため産院に行き、2歳の孫を連れて帰宅しました。
 帰宅後、いつもと違う雰囲気をわかるのでしょうか、孫は深夜2時ごろまで起きていました。息子は出産に立ち会ってから、4時ごろに戻ってきてくれたので、やっとホッとしました。
 「ひょっとしたら、夫の命が生まれてくる孫にバトンタッチするのでは」と頭をよぎりました。
 命の尊さを強く感じた一日でした。夫は肺血栓でバイパス手術を受け、3週間後無事退院しました。大好きだったソフトボールはできなくなりましたが、孫と楽しく遊んでいます。(葛飾)

▲ページの先頭へ


亡き友阿部さん

アスベストに68歳の若さで
土木 藤本武明
 1977年ごろ、品川区豊町に古い消防署の寮があった。子どもたちが走り回ると、床板がギコギコと鳴った。目黒満さん(64歳)・阿久沢均さん(63歳)数家族の寮人がいた。阿部勝章さんは隣のアパートからの仲間で、5、6家族が集合した。
 日曜日、男たちは海に漁に出かけた。ある日、大井ふ頭で投網をしていた阿部勝章さんは網を投げた瞬間に、海へ入れ歯を落とし、茂子カーチャンに怒られたが、子育てするには最高の寮であった。
 2015年正月にその仲間28人で、親睦旅行を楽しんだがそこには、阿部勝章さんはいなかった。2013年12月5日にアスベスト肺ガンで、68歳の若さで亡くなった。
 働き者の大工で朝早くから夜遅くまでマンションの部屋を造り、仲間が作業中にのぞきにきた。皆から愛された職長だった。
 2012年8月、二子玉川の花火大会には病院を抜け出して、ブルーシートで場所取りをしてくれて、花火見物しながら冷たいビールを飲んだ。ドン・ドンと上がる花火に酔いしれた。
 豊分会の住宅デーに参加し、もくもくと包丁を研いでいる姿が目に浮かぶ。
 アスベストは目に見えない爆弾である。マスクもしないで天井を張った。「アスベスト製造企業は責任を認め賠償を早期に取れ」。
 阿部茂子さん(65歳)は入院治療費は無料で休業補償も毎月出て本当に助かった。東京土建の一人親方労災にも加入していてよかったと話してくれた。(品川)

▲ページの先頭へ


「ファンです」と亡妻

弱い力士の私に写真撮影
塗装 堀井龍二
 亡き妻の思い出です。私は塗装工になる前は力士でした。彼女と出会ったのは大阪府立体育館でした。その日の取り組みの番待ちで花道にいたところ、私の写真を撮っていたのが彼女でした。
 「なんで私のような弱い力士を撮るんですか」と彼女に尋ねると「ファンです」と。「ファンなら嫌われないだろう」と「今日の取り組みが終ったら喫茶店でお話を」と誘いました。喫茶店では、緊張のあまり顔は真っ赤、どもってしまいました。
 彼女は1975(昭和50)年春場所の時からファンだといい、相撲同好会の会長から立永龍(たつえいりゅう)という四股名(しこな)までもらったというので驚きました。入門時から応援してくれていたことをきき、緊張がほぐれ話すことができました。
 千秋楽の次の日の昼ごろ、部屋に電話が入り大阪の心斎橋で会いました。ニキビを治す薬のプレゼントをもらい、「女性からプレゼントをもらうのって初めて?」とよい気分になり、近くのパブでお酒を飲みました。飲み過ぎて酔いつぶれてしまいました。
 東京、大阪とつき合っているうちに、彼女から別れ話をされました。「実はあなたより6歳年上なの。だましてすみませんでした」。私は「それじゃあ、早く結婚しよう」とプロポーズをしました。結婚して4年目に娘が生まれました。娘が21歳のころに直腸がんが見つかり、手術で一時は回復に向かったのですが、その後肝臓がん、最後は肺がんで苦しんで死にました。享年54歳でした。(荒川)

▲ページの先頭へ


ねぎらいに嬉し涙

失敗なのに祝いに招かれ
建築設計 永田順二
 設計の仕事にたずさわって10年位で、賃貸マンションの設計をしていた時のことです。
 確認申請の準備もでき、建築指導課に提出に行くと、日影がオーバーしていると指摘を受けたのです。基準法の解釈を間違っていたのでした。それから急ぎ設計変更を行ない、なんとか確認済証取得はできましたが、当然、大変な事態になってしまいました。
 上司に報告をした時には猛烈に怒られ、一人で謝りに行けといわれたのです。何と謝ればよいのかも分からないまま、ただただ謝りました。そしていつの間にか泣きながら土下座をしていました。
 謝罪に行った数日後、担当を外され、その時はしょうがないという気持と悔しいという気持でいっぱいでした。幸いにも竣工までサポートとして関わり、無事竣工することができました。
 竣工のとき、今でも忘れえぬことが起きたのです。それは、竣工式に自分を呼んでいただいたのです。大変な迷惑を掛けてしまったにもかかわらず、祝いの席に呼ばれ大変驚きました。お祝いのあいさつにうかがった際、名前入りのボールペンと「ご苦労様でした。立派な建物ありがとうございました」と言葉をいただいた時には、うれしくて涙が出てしまいました。
 最後まで物件に関わることができ、施主様に温かい言葉をいただけることが、設計をしていて何よりうれしく、励みになります。失敗の積み重ねも貴重な経験として大切なことだとつくづく思います。(八王子)

▲ページの先頭へ


家庭は自ら築くもの

愛する娘たちへの教え
建具 鈴木春益
 30年程前、娘が生まれ、ベビーベッドに寝ている姿を見た時は、何にもかえられない不思議な気持に襲われました。娘たちとのできごとの毎日が楽しく、塾の送り迎え、帰りのソフトクリームデートなど。会話もだいじにしてきたので思春期も無事通過。唯一の心配は「勉強の苦手な私に似てしまったら…」ということで、学業の大切さを押しつけにならないよう教えることに心がけました。
 娘たちもそれぞれ4年制の大学に入り、上の娘は司書資格を取得し、下の娘は授業の一環で市役所の業務学習を受講しました。行った先で担当の方より「私の祖父たちが若い人への思いから、土地を無償で提供し、学園都市を作りました。それが独協大学、今のあなたの学び舎です」と伝えられました。娘は篤志家の心意気を感じ、「いつか誰かの役に立ちたい」とボランティアに励んでいます。
 孫が5年前に生まれ、出産後は私たちの考えで実家には戻らせず、自宅へ直行させました。若い家庭は自分たちで築くもの。「生まれたての、手のひらに乗るかと思うほどの弱弱しい嬰児の成長を目の当たりにし、愛を育てるこの時期を手放してはいけない」と娘に教えました。娘からは「あの時があるから、パパも大変育児に協力してくれるし、大切に子どもと接してくれる」と話してくれました。
 孫たちの泣き顔、寝顔、かわいい仕草、舌足らずの言葉すべてを耳に目に焼きつけて、行く先の短さを感じ毎日が忘れられない積み重ねの日日です。(荒川)

▲ページの先頭へ


プレゼントは何を

兄と私育ててくれた亡父
とび 名越秀和
 今年も父の日がやってきた。毎年のこの日の前は本当に悩んだのを思い出す。親父のほしいものは何?
 父は4年前、63才の時にアスベストじん肺で亡くなった。2代続く土建屋を20歳で引き継ぎ、順調に会社を大きくし、何不自由することなく兄と私を育ててくれた。
 私は学校卒業後、兄同様、実家に就職し職人見習いとして社会人デビュー。17年前のある日、新車の2トンダンプを雨天の時にスリップさせ、対向車の10トンダンプと接触し、横転する事故を起こした。死んでもおかしくない事故だった。さいわい全身打撲だけですみ。1カ月ほど自宅で安静にし、仕事に復帰した。これだけ迷惑かけてきちんと謝ったのだろうか? 他にも謝りたいことはいくらでもある。
 親父のお通夜で中学生になった親戚の女の子が、びっくりするくらい大声で泣きじゃくっていた。親父は本当に子ども好きだった。子どもたちからこんなにしたわれていたのかと思い誇らしかった。
 そんな親父に孫の顔も見せず旅立たせてしまった。親父のほしかったものは、孫の笑顔だったんじゃないか?親父は何もいわなかったが、それをプレゼントできなかったのは、私の一生の後悔だ。
 最近、兄は親父に似てきた。声の出し方、歩き方、几帳面な性格まで。たまに兄は親父を飛び越えて、25年前に亡くなった祖父をも思い出させてくれる。兄のいるおかげで家族の思い出は風化しない。兄の存在って本当にありがたい。(江東)

▲ページの先頭へ


やさしい言葉は宝物

自殺さえ考えた修業時代
大工 新妻 操
 1953(昭和28)年に中学を卒業し、私は父から強制的に大工の修業に出され、小僧2年目でした。春から秋ごろまで北海道に出稼ぎのため兄弟子に連れられ、相馬を離れて旭川でした。
 着いたのは建築請負業の親方、田中さんの家。東北地方の出稼ぎ職人が15人いて、私のやる仕事はまったく経験のないご飯炊きで困りました。大きな鍋でしかもマキでできあがるご飯は「メッコご飯」(炊けてない芯のあるご飯)。大勢の職人さんに「こんなもの食えるか」と鍋ごと床に叩きつけられる日が何日も続きました。見かねた親方の女将さんが「苦労あってこそ立派な職人になるんだからね」とねぎらっていただいたことを今も決して忘れません。
 仕事先は旭川機関車の操車場で私は毎日、エゾ松の幅30センチメートルの板を両面手カンナで削る作業をしました。サラシを肩に掛けて手削りで、1日最高で70坪を削った時代でした。2、3週間も過ぎるころに両腕にエゾ松のささくれが刺さり化膿し、何気なくしぼると3センチほどのささくれが何本も出てきたのには驚きました。あまりにもつらく、線路に横たわり自殺をはかろうと機関車の下にもぐりこんだところを鉄道員に見つかり「つらくても乗り越えれば幸せになれるから」といいきかされました。
 「内地には両親がいるんでしょう」と励ましてくれた親切な恩人の姿を今も決して忘れることはありません、どんなにつらくても、やさしい言葉は私の宝ものです。(世田谷)

▲ページの先頭へ


姉の恋人は特攻死

恐ろしかったB29の来襲
主婦 福田つね子
 忘れられぬ戦争の思い出は8歳上の姉のこと。私と違いロマンチックな人でした。
 高等女学校に入学すると間もなく、学徒動員で仙台から神奈川県の江の島へ連れて行かれ、落下傘や戦闘機に使う部品組み立てなどの作業をしたそうです。憲兵に見張られ緊張の連続で逃げたかったが、夜布団をかぶって仲間と語りあうのが楽しみだったそうです。戦争も激しくなったころ、やっと家に帰され、ほとんど勉強などせず形ばかりの卒業式だったようです。
 姉には近所に幼なじみで好きな人がいて、文学青年で姉ごのみの人だったようです。突然、特攻隊に志願し出征、生きて帰れない目標に向かって飛び立つ前に、姉への思いを書いた手紙が後になって届いたそうです。姉は人が変わったように、この地から逃避行したかったのでしょう。奈良の伯母の家に身を寄せ、3年後家に帰ってきました。
 私の記憶です。戦争も激しくなり、昼夜を問わず、町会の団長さんがメガホンを持って警戒警報を発令。ほどなく空襲警報に変り「敵機来襲!防空壕に入れ!」の大きな声。リュックサックにお米・塩・ご先祖さまの位牌などを背中に背負わされる。母と弟、祖母とで真っ暗な壕の中に飛び込む。サイレンの音、B29の編隊の不気味な音、それらが入り混じり体中に染み込むような重たい音を残し、飛行場に向かって通り過ぎて行く…。恐ろしく、怖かった…。
 今でもあの時の光景が鮮明に記憶に残っています。幸い私たちの町は空襲から免れることができました。(練馬)

▲ページの先頭へ


救急車呼んでくれ

大ケガなのに事情聴取
大工 原沢 修
 私は組合に入って支部で役員をやり、今や本部の役員にもなりました。しかし30年前は大工仕事をやって、夜は毎日のように飲み歩き、若かったこともあり無茶な生活をしていました。
 ある夜、スナックで飲んで、店のママから自転車を借りて帰る途中、酔っ払って転倒、腎臓を破る大ケガをしました。夜中の2時ごろだったと思います。自転車を起こして歩こうとした時、交番からお巡りさんが出てきて、自転車盗難を疑われ事情聴取を受けるために交番に連れていかれました。
 1時間くらい聴取されている間、「お腹が痛いから救急車を呼んでくれ」といったものの、きき入れてもらえませんでした。自転車が盗難車であったようで聴取が長引きましたが、私は店から預かったものなので謝りませんでした。
 それで本署まで連れて行かれ、さらに1時間くらい聴取を受けました。「もう帰っていいですよ」といわれた時、頭にきて「救急車を呼んでくれますか」といっても「家に帰った方がいいですよ」との返答。黙って家に帰りましたが、朝までお腹が痛くて眠れず、朝一番で病院に行くと「腎臓破裂」と診断され、即入院。2カ月以上かかりました。
 15日くらいたってから警官が病院に来て、自転車のことと救急車を呼ばなかったことで私に謝りました。私自身はその時、心の中では許していませんでした。一方、このようなことは2度とあってはいけないと反省し、人生の中でいい勉強になったと思っています。(豊島)

▲ページの先頭へ


人生には三つの坂

東電役員に立候補したが
ビルメン 江沢とり
 昔からよくいわれる人生には3つの坂があると。
 登り坂、下る坂、そしてまさかの坂。
 私も生まれて81年。まさに3つも4つもの坂を昇り降りしてきたように思う。
 結婚して8年目のこと。3人目の子どもを出産した時、とりあげた医師の最初の一言。「この子はどうも…」。病院の奥様に抱かれてきたわが子ども。手の指は伸びない、足は…。「この子は一生歩けないかも」と。
 その日のうちに子どもを抱え、パジャマのまま病院から逃げ出した。(その子も今は本当に何不自由なく2人の子どもの親としてがんばっている)
 それから13年後、東京電力で委託検針をしていた人生最高潮。大田、品川、世田谷支社の代表として本部執行委員に立候補した時、何の前ぶれもなく本社の社員がわが家を訪ねてきた。運悪くというか、玄関に主人がそのころ一生懸命だった共産党のポスターが貼ってあった。
 東京電力では共産党は絶対にダメ。その日のうちに大問題になり谷底へ。
 3つ目は、こともあろうに東京土建の世田谷支部で、女性で初めての支部の常任執行委員に立候補した時。支部大会でふるえながら決意表明したことをおぼえている。何とか当選することができ、教宣部長をおおせつかった。
 それから私の人生も変わったと思う。東京土建の組合員として恥じることなく活動している。もうすぐ82歳になる。(世田谷)

▲ページの先頭へ


モデルは竹内先生

写生コンクールで銅賞
看板 今井彰
 恩師の思い出は多多あるが、とりわけ思い出深いのは小学校1、2年を担任していただいた竹内麗子先生です。
 1年生の冬休み前に、先生は「正月は山梨県の実家に帰っているので、年賀状をもらえたら大変うれしい」といって住所を黒板に書いてくれた。「山梨県南巨摩郡南部町…」。そこまでは今でもおぼえているので、きっと年賀状を出したのだと思う。
 2年生の2学期中ごろ、「東京都主催で小学生の写生コンクールがあるので描いてみませんか」と先生にすすめられた。何を描いたらいいのかと質問したら「先生を描いてみたら」といわれたので、放課後教室で先生と二人だけで絵を描いて出品したら、銅賞を受賞してしまった。「絵は上野の美術館に展示されているけれど、戻ってこないので思い出に観てきなさい」と美術館までの地図と交通費をいただいた。江戸川区一之江から一人でトロリーバスに乗って観てきた。顔を少し傾けた竹内先生の顔がそんなにじょうずに描けていなかったのになぜ賞を…と不思議な気がしたことをおぼえている。
 先生は別の学校に転任されてしまった。下宿先の住所を教えてもらっていた。どうしてももう一度逢いたいので仲よしの同級生を誘って先生の部屋を訪ねた。幸い先生は部屋におられたので再会できた。何だったか飲み物をいただきながら30分くらい話をした後、近くの文房店でノートを買ってもらい、バス停まで送っていただき帰りのバス代までも…。ぜひとも再会したい恩師です。(台東)

▲ページの先頭へ


骨壺の中には小石

息子を戦争で失った伯母
主婦 後藤フサ子
 今年は戦後70年の節目の年。終戦1年前に生まれた私は、そのころのことはしるよしもありませんが、大変だった両親はことあるごとに話をきかせてくれました。
 生まれたばかりの私と両親は横浜の鶴見に住んでいて、ひどい空襲にあいました。家が大揺れした時びっくりした父はお風呂の中に私を落とし中耳炎になり、ひどい戦争の最中、医者に通った母は大変だったと…。
 命からがら両親のいなか、信州に疎開し、命は助かったが、今度は生きるための食糧調達。配給の醤油のビンを倒し、ピチャピチャと遊んでいた私には困ったと母、その後弟3人がふえ家族5人の米不足、配給ではとてもたりず、近所の乾物屋さんの裏口へこっそりとヤミ米を買いに何度か行きました。
 それでも身近な伯母のことを考えると生きていられてよかったと思います。伯母の長男は若くして海軍に徴収され、戦死の公報とともに骨壺の中には小石が一つ、コトコトと鳴っていたと泣いて話していたことは今でも目に焼きついています。
 その後伯母が亡くなった時には、だいじにとってあった息子の戦場からの手紙を全部お棺に入れました。「父上様、母上様」に始まり船の上では一生懸命勉強して、一つでも上の位につきたいとがんばっていることばかり書いてありました。
 若い従兄弟が楽しいこともない、戦いにがんばることしかない一生がかわいそうで忘れられません。(狛江)

▲ページの先頭へ

> 記事一覧へ戻る

電話:03-5332-3971 FAX:03-5332-3972
〒169-0074 新宿区北新宿1-8-16【地図