葛飾柴又
京成金町線柴又駅下車
野菊の墓への渡し  ― 千年前にも「寅とさくら」 ―

【葛飾・大工・松井謙二記】
 戦後しばらく柴又は蚊の町と呼んでいた。下水が不備で田んぼが多く、夜にカエルがゲロゲロ、蚊がブンブンと「文化の町」の様相を呈していた。
 柴又を人情あふれる下町に映したのは映画「男はつらいよ」でおなじみの山田洋次である。なんとも下町風情を好演したのが浅草育ちの渥見清であった。30年前にもなるか、この町へ遊びに来た九州の若者がいた。ほろ酔い機嫌で「この町はどうですか」と聞くと若者はニンマリとして無言で立ち去った。
 柴又は古くは嶋俣里、中世では柴俣里(しばまたり)、江戸に入って柴又村となる。柴又は江戸川から高砂方面に延びる微高地にある。奈良、平安から中世にかけての住人遺跡が数多く見られる。東大寺正倉院に伝わる奈良時代の下総国葛飾郡(ごうり)戸籍(721年)には大嶋郡甲和(小岩)。仲村(奥戸・立石)。嶋俣里と在る。嶋俣には44戸454人の住民がいた。
 7世紀以降、大和律令国家が成立し国、郡、里が置かれ官僚機構が整備され、人民は租税の対象となる戸籍(とせき)によって管理されるようになった。
 嶋俣近辺の住民のほとんどの姓は穴王部(あなおべ)であった。そこには穴王部(の)刀良(とら)。佐久良売(さくらめ)の名前があった。寅さんとさくらは1000年以上も前にこの地で暮らしていたのであった。思えば面白いことで、まさか山田洋次が知ってのことであろうか。
 土手にすわっているあの寅さんの向こうにギンギラ川面が映っている、これが江戸川。こんもりした茂みが矢切の渡し場。舟はきしむ川面をなめるように滑り矢切へと渡る。その向こうには国府台へ連なる高台が見え、その間に畑や田圃、人家が散在する。
 渡しを降りて高台に向かうと右手に西連寺があり、ここに野菊の墓で有名な伊藤左千夫の文学記念碑がある。さらに柴又は帝釈天と門前のにぎわい、寅さん記念館など、時を超えた思いをいだかせる。