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[連載] 人さまざま


第2216号  2017年7月20日   NEW!

「出張医療」

 昭和19年、治安維持法違反で留置所に入れられた若月俊一は、翌年、釈放されてから長野県の佐久病院へ赴任する。佐久の農家は医者を呼ぶための金がなく、医者にかからず我慢をし、呼ぶときは死亡診断書を書いてもらうときであった。
 若月は牛車を押して出張診療を始める。やがて八千穂村の全村健康管理方式や全県下健康管理へと改善が進む。誰もが自由に医者にかかれる医療の民主化を目指した。

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第2214号  2017年7月1日

「風まかせ」

 榊莫山は昭和21年、奈良の国立博物館で初めて正倉院展が開かれると聞いて、自宅の伊賀上野から向かったが、あまりに多くの人が集まり、会場は札止めに。
 莫山はせっかく奈良に来たからと、興味を持っていた書家の辻本史邑の家を訪ねた。家の前で掃除をしていた女性が2階に上がれと言ったので史邑と対面。半紙を3枚渡され、来週もってこいと言われる。これが縁で弟子入り。風まかせで書の道に入った。

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第2213号  2017年6月20日

「実力」

 大正15年、吉村亀太郎は文芸グループ「巨人社」発行の文芸雑誌『巨人』に「実力」という詩を発表する。
 「何が何でも実力だ/いくらデモクラシーを叫んでも/実力なければ駄目なんだ/世界はズンズン進み行く/人はわいわいさわぐ間に/世界は休まず進むのだ/若き血燃ゆる若人よ/実力作らん努力より」。
 吉村はデモクラシーを唱えるだけではだめだ、古い意識から抜け出すために実力を持とうと提起した。

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第2211号  2017年6月1日

「言葉」

 アイヌ文化振興法成立に寄与した萱野茂は、1998年、任期満了に伴い参議院議員を引退したとき「狩猟民は、足元が暗くなる前に家に帰る」と名言を残した。国会に初登壇したときはアイヌ語であいさつし、日本が単一民族の国家ではないことを示した。
 萱野は言葉こそを民族の証だと、博物館に収めるのではなく、生きた言葉として使うと、民族にとって譲ることのできない言葉の重要性を指摘している。

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第2210号  2017年5月20日

「供養」

 1934年、葦津耕次郎は靖国神社で仏式の供養ができるようにと、神官と僧侶による「靖国会」の創設を提言した。葦津は、靖国の英霊に対しては尽忠報国の勲功の賛美に集中しており、死にきれない魂を慰めるために仏式による供養が必要だと主張した。
 しかし当時の靖国神社宮司が、天皇陛下万歳と叫んで死んだ兵士は祭神となったので、感涙すべきものだと激しく反発したため、葦津は提案を取り下げた。

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第2207号  2017年4月20日

「争いの種」

 熊谷宿の本陣竹井家を継ぎ竹井家14代当主となった竹井澹如(たんじょ)は、荒川が出水して北岸の堤防が決壊したため、決壊した翌年の明治2年、私財を投じて旧熊谷堤から荒川に向かって突堤を築いた。
 熊谷の人びとは、この偉業を称えて竹井の愛称であった万平の名を取り、突堤を「万平出し」と呼んだ。しかし万平出しによって、荒川対岸の大里村では堤防決壊の被害が大きくなり、争いの種になった。

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第2205号  2017年4月1日

「蛍の光」

 戦前の蛍研究の草分けといわれる神田左京は、タングステン白熱電燈が使用する電力のうち、光に変えている分は1.65%に過ぎず、その余りの98.35%は熱になってしまうが、蛍の場合は97%が光になっていると指摘。私たちは高い電燈代ではなく電熱代を払っていると述べた。
 そして蛍の光のような自然界の奇跡に人間はもっと学ぶべきだと説いた。まさにバイオテクノロジーの先駆であった。

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第2204号  2017年3月20日

「医師の涙」

 鎌田實は母親を自分の病院で看取ったとき、もらい子であった自分を育ててくれたことを思い出して泣いてしまう。それまでは医師として患者の死に直面しても、プロフェッショナルが泣いては失格だと考えていたが、母親の死に直面して涙が止まらなかった。
 それからは患者が亡くなった時に涙を我慢しなかったので、患者の家族から感謝されるようになった。鎌田は涙が人と人との距離感を変えることに気づいた。

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第2202号  2017年3月1日

「脱退」

 「日本の植物学の父」と呼ばれた牧野富太郎は土佐出身で、熱心な自由党員であったが、後に政治で身を立てるわけではなく、学問で国に報いることが自分の使命と考え、自由党を脱退しようと決める。
 牧野は脱退のときは気勢をあげなくてはいけないと思い、自由党の懇親会の場で、魑魅魍魎が火に焼かれて逃げていく図柄の旗を掲げ、15人ほどの仲間とともに大声で歌をうたいながら会場から脱出した。

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第2201号  2017年2月20日

「南方志願」

 8月15日の敗戦を南方のトラック島で迎えた金子兜太は、米軍の捕虜となったおかげで満足に食えるようになり、タバコも自由に吸えるようになった。
 捕虜として米軍の指揮下で滑走路の補修などに従事したが、作業の監督が仕事の金子は、とくにやることもないので、配給のキャメルでチェーンスモーキングを楽しんだ。後にシベリヤ抑留の人の話を聞き、「南方最前線志願でよかった」と胸をなでおろした。

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第2199号  2017年2月1日

「ひらがな」

 前島密は将軍徳川慶喜に提出した「漢字御廃止之議」という建議書で漢字を使うことをやめるよう提案した。外国語が堪能な前島には日本人が漢字やひらがななど複数の文字を学ぶことが無駄と思えた。
 また少年期に漢字を覚えることに時間をかけるのが惜しいと考え、明治政府にも、「国文教育ノ儀ニ付建議」を提出。ひらがなで教育すべきとのべた前島は政府の国語調査委員となり、国語の改良に努めていく。

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第2198号  2017年1月20日

「お化け」

 岐阜県高山で育った福来友吉は子どもの頃にお化けが出るという噂を聞き、「この世にお化けなどあるものか。正体をつかんでやる」と現場に乗り込み、悪童の仕業だと突き止めた。
 その後、東京帝国大学教授となった福来は超能力研究にのめりこみ、御船千鶴子の「千里眼」能力を証明しようとした公開実験に失敗、あげくに大学を追放される。それでも研究を続ける福来を世間はお化け博士とか幽霊博士と呼んだ。

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第2196号  2017年1月1日

「信念」

 元SF作家の豊田有恒はタイミング悪く2010年12月に著書「日本の原発技術が世界を変える」を出し、福1原発事故後、非国民扱いされたと述懐している。
 それでも12年に設立された日本エネルギー会議の発起人となり、原子力も含めてエネルギー問題を議論しないと、世界一の法人税、世界一の電気料金、マネーサプライを増やしたくない日銀の三悪で大量倒産だといって、原発推進の立場を崩すことはなかった。

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第2195号  2016年12月20日

「92%」

 1994年10月1日、パラオ共和国は米国の信託統治領から独立。この時パラオ共和国大統領だったのがクニオ・ナカムラだ。
 独立以前の10年間、パラオでは米国の核持ち込みをめぐって対立が続き、独立を阻んでいた。クニオ・ナカムラはこれに終止符を打とうと米国と死に物狂いで折衝した。1981年に92%の支持で誕生した非核憲法の力が後ろ盾になり「パラオの人びとが支えてくれている」と信念を貫いた。

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第2193号  2016年12月1日

「語学力」

 1853年5月、ペリー艦隊が琉球を占領しようと琉球政府に無理難題を吹っ掛けたが、琉球政府の通訳の牧志朝忠は、これを命がけで阻止しようとした。
 牧志は英語を先輩の通訳から学ぶだけでなく、米国の歴史や地理、初代大統領の実績まで知識を広げた。
 ペリー艦隊との交渉で最初は中国語で通訳を介して話していたが、らちが明かないと判断するや、英語に切り替え、直にペリーに話しかけて驚かせた。

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第2192号  2016年11月20日

「吾輩は」

 哲学者の梅原猛は「吾輩は猫である」の向こうを張って「吾輩は亀である」と題した小説を思い立つ。身近に飼われている猫よりも人間界から遠い存在なので、徹底した文明批判ができると考えたのであった。
 自宅の池で亀を飼い、観察を始めたが、放浪癖のある亀は池から逃亡、小説は書けなかった。しかし諫早湾で死滅するムツゴロウに心を寄せ、「吾輩はムツゴロウである」を未完に終わったが書いた。

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第2190号  2016年11月1日

「野垂れ死に」

 画家の髙島野十郎は、画壇に属さず独学で絵を描き、独身を貫いた。
 最晩年は千葉県柏市の朽ち果てた茅葺き小屋のアトリエで暮らした。井戸水とランプを使い、畑を耕す、自給自足の生活であったが、病気で衰弱。見かねた村人に老人ホームに入れさせられる。2カ月後の昭和50年9月17日、85歳の生涯を閉じる。死ぬ間際に「自分は、本当は誰もいないところで野垂れ死にしたかった」といった。

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第2189号  2016年10月20日

「ツチノコ」

 渓流釣り師の山本素石はツチノコを探索する「ノータリンクラブ」を結成した。「クラブ」の名前は実在も怪しいツチノコの捕獲を真面目にやるのは賢い人間がやることでないことに由来する。しかしツチノコブームが起き、賞金まで出るお祭り騒ぎとなって、素石は著書の『逃げろツチノコ』のあとがきで、もうツチノコは追いかけない、もしツチノコに出会ったら、捕まらないように逃げろというだろうと記している。

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第2187号  2016年10月1日

「雑な言葉」

 映画の字幕が直訳では長くなり客は読み切れない。そのため字幕には「セリフ1秒につき4文字」のルールがあり、長いセリフもこれを基準に納めなくてはならない。今年56歳で急逝した字幕屋の太田直子は、セリフの意味が変わらずに伝わる、簡潔で美しい日本語を求め続けた。晩年「言葉をおろそかにすると、生き方そのものが雑になる気がします」と語ったように、コミュニケーションでの言葉の大切さに心を砕いた。

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第2186号  2016年9月20日

「43年後」

 戦前、ドイツのベルリン大学に留学した医師の肥沼信次は戦後も東ドイツに残る。衛生状態が悪化し発疹チフスが蔓延、肥沼は献身的に治療する。肥沼自身も感染するが、薬は他の人に使えと自分に使うことを拒否、1946年3月、37歳で亡くなる。1994年に肥沼は東ドイツのヴリーツェン市の名誉市民となった。しかし、こうした肥沼の活動が日本に伝わったのは亡くなって43年経たベルリンの壁崩壊後であった。

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第2184号  2016年9月1日

「笑いは希望」

 2・26事件の2日目を過ぎたころ、警視庁を占拠した歩兵第三連隊では食料が不足した。下士官が親子丼を1杯だけ持ってきて60人で分けたが、兵士たちは元気が出ない。そこで元気が出るように落語をやれと命じられたのが小林盛夫2等兵、後の5代目柳家小さんだ。「子ほめ」を演じたが誰も笑わない。その後この連隊は満州へ送られる。「つらい時こそ、笑いが希望になる」と考え、小林は戦地でも落語を披露した。

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第2183号  2016年8月20日

「つじつま合わせ」

 毎日新聞の新名丈夫記者は1944年2月23日の毎日新聞1面に「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋航空機だ」との見出しで最新鋭の武装をしている米軍に竹槍で勝てるわけがないと書いた。海軍は喜んだが、陸軍の東条英機は激怒し、37歳の新名を招集した。一人だけの招集に海軍が抗議したため、陸軍は新名と同年代の者、250人を招集した。新名は3カ月で召集解除されたが、250人は硫黄島へ送られた。

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第2181号  2016年8月1日

「無神経」

 大橋巨泉は沖縄が日本に復帰する前から「沖縄の独立」を主張していた。佐藤栄作首相が「核抜き、本土並み」で沖縄を復帰と表明したとき、「基地があって、何が本土並みだ。あなたの家の裏に基地がありますか」と反論した。大橋は日本が琉球を軍事力で併合し、戦争中は住民を犠牲にしたことにふれ、「それでケロッとして観光に行ける神経が俺には分からない」と語り、生涯通じて沖縄を訪れることはなかった。

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第2180号  2016年7月20日

「誰の芸術」

 岩手県出身の作家、高橋克彦は東日本大震災で食料などが不足し、困窮している人びとをみて、自分の仕事に疑念が膨らんだ。
 本を書いている身として、誰も書店や図書館の復活を望む声をあげていなかったからだ。
 失望のさなか、高橋は宮沢賢治の『農民芸術論概要』を読み、芸術は働くものたちのためにあると、賢治が宣言したことに感動し、自分の仕事への疑念が払しょくされる。

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第2178号  2016年7月1日

「お金持ち」

 桐谷広人は総資産1億円以上の株を保有し、株主優待券で生活している。もとはプロ棋士であったが、米長邦雄元名人が原因で結婚を逃し、将棋界を去った。桐谷はお金持ちですねという問いに、自分と同じ年で女房と子どもや孫がいて、小さい家でもあったら、自分の持っている株の資産よりも精神的、人間的には豊かだと思うと答えている。自分は株の依存症だという桐谷だが、別のところに豊かさを求めているようだ。

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第2177号  2016年6月20日

「平和の予言」

 脚本家で精神世界に傾倒していた宮田雪(きよし)は、日本山妙法寺の藤井日達上人から世界平和実現にはネイティブ・アメリカンの力が必要としらされる。
 78年、宮田はアメリカでネイティブ・アメリカン・ホピ族の予言をしる。予言には原爆が「灰のつまったひょうたん」として語られていた。宮田は86年に映画「ホピの予言」を監督。映画は同年に起きたチェルノブイリ原発事故を契機に自主上映として広がった。

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第2175号  2016年6月1日

「お見舞い」

 全日本女子バレーチームのキャプテンとして活躍する木村沙織と、高校時代に一緒にバレーに打ち込んでいたのが、1年後輩の横山友美佳だ。横山は2004年に木村とともに日本代表メンバーに選ばれるが、ガンを宣告され、21歳の若さで亡くなってしまう。
 木村が横山に宛てた手紙には「お見舞いに行って私が元気づけるはずなのに、いつも元気をもらって帰るのは私のほうだった」とつづられている。

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第2174号  2016年5月20日

「母の言葉」

 1973年、吉田拓郎は冤罪事件で逮捕された。テレビ出演拒否と公言していた吉田が女子大生を暴行したと、マスコミのバッシングにあうが、事件は女子大生の狂言と判明。吉田は逆告訴して決着をつけることもできたが、吉田の母の「これから家庭を作ろうとしている人を傷つける資格はおまえにはない」という言葉で思いとどまる。母は吉田が冤罪を晴らすよりも、結婚をひかえた女子大生の幸せを願ったのだった。

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第2171号  2016年4月20日

「親に降る雨」

 吉野弘の「祝婚歌」は、結婚式で新郎新婦によく贈られている詩だ。その一節に「互いに非難することがあっても/非難できる資格が自分にあったかどうか/あとで/疑わしくなるほうがいい」とある。吉野は若いとき、父親に向かって、自分がダメな人間なのは父親のせいだといったところ、父親は「親に降る雨、子にかかる」と答えた。親に降りかかる非難が子に降りかからずにすむはずはないということだった。

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第2169号  2016年4月1日

「心中の真相」

 作家有島武郎は妻に先立たれた後、雑誌記者波多野秋子と知り合い、軽井沢の別荘で心中する。事件当初、夫がいた秋子は悪女であったという評判がたった。しかし、死の直前、秋子が有島にあてた手紙では、夫が自分を思う気持に、「思ひ切り石を投げつけられたいとおもひます」と罪悪感を吐露する一方、有島に対し、「どうかゆくところへ行きつかせて下さい。もしあなたの誠が変わらなければ」とつづっていた。

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第2168号  2016年3月20日

「化粧栄え」

 大映のスターであった市川雷蔵のメイクアップを担当したのが小林昌典だ。小林は京都で生まれ育ち、日活の脚本・背景の仕事をへて大映では美粧担当となった。悲しみとさわやかさの両方を備える役者と称された雷蔵も、小林のメイクで顔がころころ変わった。
 ふだんの雷蔵はまるで銀行員のような風貌で、駅に立っていても誰にも気づかれないほど地味だったという。化粧栄えという次元ではなかったらしい。

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第2166号  2016年3月1日

「新しい女」

 戦後、社会党の代議士となった神近市子は、東京日日新聞の記者になったころ、大杉栄と知り合い、恋に落ち、やがて大杉をめぐる愛憎関係から、大杉の首を刃物で刺した。
 「青鞜」に参加した「新しい女」だったが、獄中では「やることはやった。復讐はすんだ」と思う一方で「苦役の生活にはいってみると、事件当時の印象がふたたびめざめてきて、憎しみの涙がわくこともあった」と述懐した。

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第2165号  2016年2月20日

「増税批判」

 世界的なベストセラーとなった『21世紀の資本』を著わし、格差拡大に警鐘を鳴らしたフランスの経済学者トマ・ピケティ。格差を緩和するためには累進課税の富裕税が必要であると提案している。
 2015年1月に来日した際の記者会見で、「あらゆる人にかかる消費税を引き上げることが、どうして日本の成長にとってよいことなのか。納得できない」と消費税増税に批判的見解をのべた。

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第2163号  2016年2月1日

「奇行の人」

 大毎、東京(いずれも現ロッテ)で2度の首位打者に輝き、「打撃の天才」と呼ばれこのほど殿堂入りした榎本喜八は奇行の人としても数数の伝説を残している。
 1966年のオールスターに選出された時、試合前練習に一人参加せず、プレーボールまでベンチで座禅を組んでいた。また引退後、深夜の早稲田通りをランニングしているところで行き先を問われると「東京スタジアム!」(南千住にかつてあった)と答え走り去った。

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第2162号  2016年1月20日

「潜入レポ」

 『野生の呼び声』などの作品で有名なアメリカの作家、ジャック・ロンドンは1902年にロンドンのイースト・エンドの貧民街への変装潜入レポート『どん底の人びと』を著した。
 文明による生産力のめざましい進展はあるが、管理がまずいとし「(イースト・エンドの人びとは)1万年前の石器時代と同じ生活を今日もしているイヌイット族と比べて、衣食住のすべての面で劣っていのだ」と実態を告発した。

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第2160号  2016年1月1日

「最下位当選」

 1969年衆議院選挙で落選した立川談志は、土重来を期し、1971年の参議院選挙全国区に無所属で立候補した。
 この時は石原慎太郎後援会の「日本の新しい世代の会」が談志を応援し、弟子たち全員が運動員に駆り出された。開票日の当初は60位台だったが、深夜に最下位当選の50位にどうにかすべり込み、落語家初の国会議員誕生となった。談志は「トリは最後に入るんだ」とうそぶいたという。

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第2159号  2015年12月20日

「遺伝子検査」

 1973年、ノーベル物理学賞を受賞した江崎玲於奈。森喜朗首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」の座長をつとめ、「教育を変える17の提案」を最終報告している。
 ジャーナリスト、斎藤貴男に「ある種の能力の備わっていない者が、いくらやってもねえ。いずれは就学時に遺伝子検査を行ない、それぞれの遺伝子情報に見合った教育をせざるを得なくなりますよ」と答え、「優生学」的考えを披露した。

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第2157号  2015年12月1日

「母の激励」

 フロッピーディスクなどの発明で有名な「ドクター中松」こと中松義郎は60歳を超してから「21世紀の地球都市を発明する」といって東京都知事選挙に立候補を決意する。
 「あなたは地位も世界的な名誉もお持ちの方です。何を今さらそんなことを」と周囲には反対の声が多かったが、母芳野は「あなたはまだまだ伸びる。ガンガンおやりなさい」と激励し、選挙戦では90歳を超す身で宣伝カーにも乗った。

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第2156号  2015年11月20日

「期待外れ」

 「松本サリン事件」で警察とマスコミから犯人と扱いされた河野義行。2002年、当時の長野県知事田中康夫から要請され、長野県警を監督する公安委員を1期務めた。
 しかし生坂ダム殺人事件での長野県警の「捜査ミス」に関して、河野は「当時の捜査において他殺と断定できなかったことはやむをえなかった」と判断し、県警糾弾の急先鋒になることを期待していた田中と対立、公安委員を更迭された。

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第2154号  2015年11月1日

「正真正銘」

 1978年プロ野球日本シリーズ第7戦。6回裏、ヤクルト、大杉勝男の放った打球はレフトポール際のスタンドに飛び込んだ。判定はホームラン。「ファウルではないか」と対戦相手の阪急、上田利治監督は1時間にわたる執拗な抗議を行ない、試合は中断した。
 「ホームラン」に難クセをつけられた大杉は怒りが収まらなかった。8回の次打席では左中間に文句なしのホームランを放ち、シリーズMVPを獲得した。

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第2153号  2015年10月20日

「ヒリヒリ感」

 大王製紙の創業家3代目、井川意高は同社会長時にカジノでの使用目的で子会社から106億円もの借入が発覚、2011年に逮捕され、2年後懲役4年の実刑が確定した。
 バカラ賭博におぼれた懺悔録ともいわれる『熔ける』の中で「地獄の釜の蓋が開いた瀬戸際で味わう、ジリジリと焼け焦がれるような感覚がたまらない。このヒリヒリ感がギャンブルの本当の恐ろしさなのだと思う」とのべている。

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第2151号  2015年10月1日

「運も実力」

 終戦の年に、東大経済学部を卒業し農林省に入省した内村良英は1976年に官僚の最高位である事務次官(農林)に登りつめ、78年に退官した。81年には日本中央競馬会(現JRA)の第8代理事長に就任した。
 在職期間に、不正経理疑惑などに対処しながら、場外馬券環境の整備、女性客の拡大などの新施策を次次と打ち出した。83、84年と連続で三冠馬が誕生する「運」にも恵まれ競馬の人気回復に成功した。

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第2150号  2015年9月20日

「はかない」

 俳優の勝新太郎は1990年、ホノルル空港で下着にマリファナとコカインを隠し持っていたとして現行犯逮捕された。
 逮捕後の記者会見で勝は「今後は同様の事件を起こさないように、もうパンツを履かないようにする」などと煙に巻く発言をくり返し、どうやって手に入れたかをいわなかった。しかし翌年には日本でも麻薬などの不法所持で逮捕され懲役2年6カ月・執行猶予4年の有罪判決を受けた。

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第2148号  2015年9月1日

「甘党」

 文豪といわれた森鴎外は医師であったこともよくしられている。ドイツに留学した際には衛生学を学んだ。その影響か、なまものに対して異常な警戒心を持ち、なま水は飲まず、果物も煮て食べた。
 甘党の鴎外の好物は饅頭茶漬け。長女、森茉莉は「饅頭を父は象牙色で爪の白い、綺麗な掌で二つに割り、それを又四つ位に割って御飯の上にのせ、煎茶をかけて美味しそうにたべた」と自著の中で書いている。

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