日本は負けるぞ
敗戦を予告していた中隊長

馬場春男
 私は熊本県菊池郡泗水村(現菊地市)の飛行学校(機上通信士)を卒業したが、飛行機が不足しているために転属(各部隊にまわされる)できず、毎日防空壕掘りや機上監視、訓練で頑張っていた。
 ある日、陸軍士官学校を卒業した中隊長は私たち中隊全員(約500人)を菊地飛行場の片隅に円陣を作り座らせた。中隊長は「日本は負けるぞ!」と訓話をしてくれた。「お前達はどう思う」と聞くので「ハイ。自分は軍人精神があるから、最後の一兵になるまで戦います。父母のいる国を死守致します」と兵士が答えると、中隊長は「ありがとう。しかし米英の物量は日本が1とすれば敵は30〜50倍はある。いくら軍人精神が強くとも物量にはかなわぬ。現在、我が飛行場にはガソリンがドラム缶150本(約1万5千リッター)しか無い。敵B291機が硫黄島から日本を空襲して帰路に着くまでに、ドラム缶で45本を使う。例としてB29が10機編隊で空襲に来た場合は450本のガソリンが必要である。我が飛行場にはB29に換算して3機分のガソリンしかない。これでどうして戦えるか?私は夜も眠れない。今さら、このような事を言っても仕方がないが、お前達はとにかく長生きしてくれ」と話してくれた。
 その数ヵ月前に中隊長は自室で一人ひとりに「お前の兄弟は何人おるか」と聞く。2日後、我が中隊から7人の特攻隊員が発表された。私の班からは1人、荒川兵長が選ばれた。レーダー探知の勉強をして、それから出動するという。そして私は別れた。その後、私は大阪に転属となり、豊中市の小学校に配属となり、終戦になるまで、ここで頑張った。また戦友の荒川兵長の消息は不明だ。
 他班で台湾人の陳基覧も特攻隊員の一人だった。

(板橋)